平成29年 4月号 №374 表面

〘第三十四回 女性部総会・私のつぶやきの集い〙
 三月十日、平成二十八年度の総会、私のつぶやきを開
催しました。今年の「私のつぶやき」は福田よしえさん
と松下ひとみさんの二人。
そして昨年亡くなられた毛利隆保さんの娘さんに「父
の思い出」を話して頂き、毛利さんの作詞「感謝のメガ
ネ」をみんなで合唱して毛利さんの追悼を行いました。
私達は毛利さんにご指導を頂いた言わば教え子。天国
の毛利さんにたくさんの感謝を届けたいと歌いました。
 また、今年の総会のゲストは広島安佐事務所の中村光
子社会教育講師。明るく楽しいお話に感動しました。
そして恒例のチャリティーバザーや持ち寄りランチパー
ティー。美味しい食べ物がたくさん集まり、豪華なバイ
キング。ウクレレ、墨絵、ヨガ等のサークルの一年間の
成果も披露しました。
 中村講師のお話を少し紹介します。中村講師は十年前
御主人を亡くされてから、時間に余裕が出来て(というこ
と)モラロジーを熱心に学び始めたという比較的モラロジ
ー歴の浅い方ですが、とても素直な方で、どんどんと教
えを吸収して講師になられた方です。
 何事も謙虚に、低く温かい心になる、プラス発想で明
るく過ごすことを心掛けていると言われていました。
 人の良いところを見つけて褒めるように心がけている
と、お嫁さんが自分の母親に「いつもお義母さんから褒
められている」と伝えたそうです。そこで、お嫁さんの
お母さんもそのことに感化され、実行しているうちに、
そちらの嫁姑関係がとてもよくなったという話でした。
日頃からニューモラルの本もさりげなく差し上げて、
ニューモラルの仲間がだんだん増えてきたそうです。
 そんな楽しい日常の話に加えて、戦争中のパラオと日
本人の感動的な友情物語の秘話を紹介されました。
パラオのペリリュー島には日本軍の陣地が作られてい
ましたが、現地の人と日本軍は大変仲良く交流していま
した。しかし、アメリカ軍によって包囲され、いよいよ
激戦になるとき、島の人達は自分達も一緒に戦いたいと
申し出たのですが、日本軍はそれを断り、島の人達全員
を島から追い出しました。島の人達は今までの親切は嘘
だったかとがっかりしながら島を離れようとしたとき、
日本軍全員が海岸に出てきて手を振って島の人達を涙な
がらに見送ったのです。島の人達を巻き添えにしてはい
けないという日本軍の配慮でした。
戦争が終わり、島へ帰ってみると日本軍は全滅。
島民達は遺体に涙して、丁寧に埋葬したのでした。
パラオの国の人達は日本人の勤勉さ、勇気と祖国愛と
礼儀正しさ、優しさに敬意を払い、自分の国の国旗を
日の丸に似せて「青い海と月」の国旗にしました。
昨年、パラオの国に両陛下が慰霊に行かれました。そ
れは昭和天皇の果せなかった悲願でした。パラオの人
達から大歓迎されました。
めったに聞くことのない日本軍人の素晴らしい秘話
に涙しつつ聞かせていただきました。
 総会は一年の締めくくりです。また一年の日々を
大切に有意義に、日々励みましょう。

  〘 受け入れる 受け止める 〙
私は今年ほど春が待ち遠しいと思った
ことはありません。「春よ来い、早く来い、
歩き始めたミーちゃんが・・」という歌の
心境で、寒い冬を炬燵にもぐって籠る事の
多い日々でした。
というのも、私は新年早々の寒い日、アキレス腱を切
るという失態、笑うに笑えない、泣くに泣けない事態を
引き起こしてしまったのです。切った足が右だったので
車の運転もできず、まさに足止め状態。そうは言っても
外出は不可欠、二か月間、家族や仲間の人達に乗せても
らって外出する(最低限で)という状態でした。これほど
多くの方に助けて頂いての生活は初めて。大変にお世話
になり、有難い事でした。せめてもの不幸中の幸いは寒
い冬の時期だったこと。それが動けない私の慰めでした。
 高齢者の運転事故が多く、免許返上の問題が現実化し
てきましたが、津山の地で暮らすに運転できないのは、
困ったことだとその現実を受け入れ難く思っていた所、
なんと私は早々とその体験をしてしまったのです。
これは九十二歳の母の生活に近い。ずっーと活動的に
生きてきた母が味わっている事を私も体験したのでした。
 事故というものは一瞬。後から思えば反省点は多い。
よくよく考えればなるべくして起こったと言えることが
多く、不注意、油断が引き起こした事だと思うのです。
それにしても、首と腰の狭窄症手術でやっと元気に動
けるようになった私が、一時と言えどまた動けない生活
に逆戻り。バランスを欠く動きで再び足腰の痛みを味わ
う生活。新年を迎えてさあこれから、という時に出鼻を
くじかれたこの事態をどう受け止めたらよいのか。ここ
で何を学べばいいのかと自問自答。「いまさらもう仕方
ない、前向きになるしかない」と居直ったりもしました。
白駒妃登美さんの講演で境野勝悟氏の話を聞きました。
~日本人には「受けて立つ」という生き方がある。日本
人は「受け入れる」というのでなく、人生に何が起こっ
ても「受けて立つ」という気概を持ち、何が起ころうと
大丈夫なように自分を磨き上げてきた。受動の中に究極
の能動がある生き方をもっている」、そして白駒さんは
「非常事態は自分を目覚めさせてくれるきっかけとなる。
受け入れる、受けて立つ、どちらに転んでも最高無敵な
生き方ではないでしょうか」と語っていました。
日頃から、先人偉人の生き方を研究している私は彼ら
の生き方の中にその気概が漲っていることを思いました。
人生の途上にあるまさかの坂、必然に起こる生老病死。
それらを受け止めるだけでなく、「受けて立つ」それは
まさに「恩寵的試練」の受け止め方。気概をもって、前
向きに積極的に人生を切り開く受け止め方です。
動けない今はエネルギーを蓄える時か、しかし七十歳
を迎える私にそれほどの仕事が残っているわけではない
けど、生き方のチェンジをする時かもしれない。もはや、
打って出るのではなく、ていねいに物事に取り組み、ゆ
ったりと生きる覚悟が必要なのかもしれないと思ったり、
いや!残りの人生を世の中に役に立てて、積極的に命を
輝かしたいと思う私には、受けて立つ気概がまだ必要だ
ということかもしれない、とあれこれ考える時間でした。
 ところで、心理学者の多胡輝氏が認知症にならない生
活の仕方として「きょういく、きょうようが大切」と話
されていたそうです。しかし、それは「教育、教養」で
はなくて「今日行、今日用」、今日行くところがある。
今日用があるという生活です。なるほど誠に的を得た話。
 健康寿命で元気に生きるためには、やはり日頃から体、
脳、心を鍛えて、まさに「受けて立つ」気概をもって
しゃきっと生きることが必要なことのようです。
※境野勝悟氏(哲学者・思想家『日本のこころの教育』は有名。
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# by nizicanvas3 | 2017-03-27 21:02 | まんりょう

四月号 №374 裏面

【先人、偉人に学ぶ】〘 小松帯刀(タテワキ) 〙
    ~幻の名宰相 龍馬を超えた男~
「中国が北海道の釧路港を拠点にしようとしている」とい
うニュースが産経新聞のトップに掲載された。北海道の広
大な土地(本州にもたくさんある)を中国人が買って何に使
っているか分からないという話は以前からある。中国は尖
閣諸島だけでなく、沖縄、北海道も支配下に置こうとして
いると二十年以上も前から言われている。狙った獲物は絶
対に諦めないのが中国流だといわれている。しかし多くの
日本人にはその危機感がないことが恐ろしい事で、問題だ。
 幕末には交易を求めて欧米の国が日本にこぞってやって
きた。当時、欧米はアジア、アフリカの植民地化に熾烈だ
った。日本は開国だ、攘夷だ、倒幕だと大騒ぎの激動期。
しかし、国が分裂して、その分裂を虎視眈々と狙っている
外国の餌食になることだけは避けなければならないと、先
人達は命を懸けて国のかじ取りをしてきた。そうして日本
は欧米の脅威に屈することなく、独立した国家として世界
に銘打ってきた歴史がある。なぜ短期間に日本が近代国家
として発展したのか、諸外国の人達は非常に強い関心をも
ち、日本を手本にしようとしていた人は少なくない。
そんな維新の実現に活躍した人達の名前はよく知られて
いる。しかし、なぜか最近までまったく知られていない人
達も少なくない。中でも薩摩藩の家老小松帯刀については、
大阪を開いた男・五代友厚よりもっと知られていない。
 今回は『龍馬を超えた男』といわれる薩摩藩家老小松帯
刀について少しばかり紹介したい。今の日本人がその名前
を耳にしたのは数年前の大河ドラマ「篤姫」だと思う。
歴史研究家の白駒妃登美さんが歴史の人物で夫に選びた
い人は誰かと問われたとき、小松帯刀かなと言われていた。
多分、白駒さんの旦那さんはそういう人かもしれない・・。
小松帯刀は本当に二番手、三番手の陰の力に徹した人。
しかし、もし小松帯刀がいなかったら、おそらく薩長連合
も結ばれず、徳川慶喜の大政奉還も難しく、また版籍奉還、
も困難を要していただろうともいわれている。
さらに、明治三年、三十五歳で病死をしなかったら、明
治の時代はもう少し違う歩み方をしていたかも、早過ぎる
龍馬の死と共に実に惜しまれる人物といわれている。
 当時、どの藩とも内部分裂があった。薩摩もさまざまな
考えの意気盛んな人達で常に分裂しかけていたが、それが
防げたのは西郷隆盛や大久保利通ではない、下級武士と島
津家、徳川慶喜や幕府、朝廷にも信頼され、外国人にも顔
が利く、小松帯刀の知恵と人柄であったといわれている。
下級武士たちの力だけでは歴史を大きく動かすには不可
能。やはり大きな権威をもつ組織力の力を使わなければ★
★国家的大事業の成就は難しいということだ。
 優れた能力があっても、お金も有力な人脈もない龍馬、
西郷、大久保たち下級武士には彼らの能力を認め、活躍
する場を提供する重役が必要、それを「車輪のない車の
ようなもの」と歴史研究家磯田道史氏は例える。
 二十歳で島津斉彬や久光に認められ、藩の重臣として
経済指導、外交までのすべてを任された小松帯刀の能力
と人柄がどれほど優れていたか想像に難くない。
 鹿児島の経済力の発展には、保守的、閉鎖的な反対派
を説き伏せて信念をもって敢行する帯刀の強い意志と知
恵が不可欠だった。帯刀は西洋事情もよく勉強していて、
西洋の科学技術をふんだんに採用する等進歩的思考の持
ち主であった。しかし、自身への欲は無く、身は常に清
廉潔白、先見の明も高く、物事に柔軟に対応できる卓越
した能力、人間性に西郷も龍馬も小松に心服していた。
 帯刀は「民の生活が潤うことは藩が潤うことになる」
と領民への慈しみ溢れる政策。大火事で城事灰になった
肥後の国の人吉藩(熊本県人吉市)の窮地を五千両の大金
を「困った時はお互いさま」と快くぽんと出して快く救
った。誰にでも面倒見の良い、人間味の深い人だった。
身分、国籍を超えて慕われた帯刀。当時活躍していた
外交官アーネスト佐藤は「最も尊敬する日本人」と帯刀
を高く評価している。昭和天皇はそんな帯刀の功績をよ
く知っておられて、勅使を派遣し、祭祀料を下賜された。
実は、ここに初めて帯刀の名が表舞台に上がったという。
 帯刀は名門肝付家の三男、幼名は尚五郎。島津斉彬の
計らいで名門小松家の千賀の婿養子に入った。
二人は仲睦まじい夫婦であったが、子供がいなかった。
そして京都にいることの多かった帯刀は京都の一流芸者
の琴を妾として、二人の子供を儲けている。男の子が帯
刀の死後、跡取りとして本妻の千賀に引き取られた。
帯刀の盟友だった五代友厚が自分の敷地に家を建てて
琴と娘の面倒をみていたが、琴は四年後に亡くなった。
 帯刀と龍馬は同い年、二人は互いを尊敬する友だった。
実は龍馬の作った海援隊の生みの親は帯刀であった。寺
田屋で襲われ傷を負った龍馬と妻のお龍を薩摩に招き、
二人を新婚旅行へ向かわせた粋な計らいは帯刀だった。
薩摩見学をした龍馬は、貴公子のような顔つきで、無口
で人当たりの良い温和な性格の帯刀のやっていることの
大きさに驚き、大した男だと改めて見直したという。
体調の悪さを圧して、新しい国作りの為に奮闘してい
たが、とうとう動けなくなった帯刀に明治天皇から「早
く元気になって御用を務めて欲しい」の御沙汰書を受け
取ったが、残念ながら、再び立つことはできなかった。
 政治、経済あらゆることに長けていた帯刀は、文章や
歌も得意、常に筆まめに知人や自分の妻にも文を出して
いた。名所旧跡を和歌に読み込んだ道行き風の見事な執
筆の日記も残っている。大いなる文化人でもあった。
馬術も得意で、命を狙われるのを防ぐ為に籠ではなく
常に馬で往来していたが、その凛々しい姿は圧倒だった。
 尊皇・佐幕の壁を越えて「小松なくば何も出来ぬ」と
言わしめた幕末最大の英傑、誰にも慕われたそんな恰好
いい貴公子が幕末にいたのはそれこそ誇らしい話だ。
《参考本》『龍馬を超えた男 小松帯刀』原口泉著
『幻の宰相 小松帯刀伝』瀬野冨吉著 
『人物叢書 小松帯刀』高村直助 等

   〘 手の文化・足の文化 〙
 「両手で水を救って飲むのは人間だけ」だそうです。
「手こそ創造の神が人間のみに与えた至上の宝」と言わ
れるのは『日本文明の真価』の著者清水馨八郎氏、氏の
本から面白い「手の話」を取り上げてみます。 
 日本人は器用、ということはよく言われることですが、
それがあるからこそ日本の文化も技術も科学も世界から
称賛されるほどの発展ができた。だから日本人は「手の
民族」といえると語っています。
日本語には「手」のつく言葉がたくさんあり、それは
すべて大和言葉で、千語以上あると紹介されています。
手のつく大和言葉は漢字文化や横文字文化に変質され
ることなく連綿と民族の生活の中に使われ続けられてい
るのです。だから日本人は自然と手のつく言葉をよく使
うということです。「寛大な御処置」⇛「お手柔らかに」
「和解成立」⇛「手を結ぶ」/「手を尽くす」「手落ち」
「手塩にかける」「手ごたえがある」「手短に」「手に余る」
このような手のつく言葉は外国語にはほとんどなく、日
本人だけが空気のように使っているのです。これらの俳
句的な簡潔な言葉を使いこなせるなんてすごいですね。
 日本人の労働はみんな手仕事。歌い手、聞き手、やり
手、売り手、手間賃、手当、手料理、手を貸す、手ずか
ら、お手植え・・・「手」は即「人」であり、手形は自
分自身の証、手相は自己の運命の証となる言葉。働き手、
人手、日本人は古来から手一本で稼いで生きてきた民族。
いい手、手を打つ、手こずる、手抜かり、手を尽くす、
おしの一手、手を焼く、手に負えない、得手、不得手、
手口、手掛かり、勝手、得手、やり手、苦手、素手、決
め手、奥の手、上手、下手、切手にまで手がつくのはな
ぜ?・・手は小さい物の美称としてそっと添えられる意
味があります。では足は? 続きは来月号に紹介します。
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# by nizicanvas3 | 2017-03-27 20:57 | まんりょう

3月 373号 上の段 

 〘 社会で役に立つ子に 〙
 二月、三月は受験シーズン。子供も大変ですが、親も大
変。私も随分体験しましたが、とにかくどこかに受かった
らほっとしたものです。また私自身も受験では高校受験も
大学受験も隋分苦労しました。しかし今ではすべてよい思
い出です。受験は人生の一つの通過点、必死で頑張る体験
こそ重要な事だと思うのです。あの必死さが懐かしい!
今思うに、どこの学校であろうと人生にはそ
れほど重要な事ではないような気がしています。
勉強はその気になればどこでもできますし、
どこでも自分を輝かせてくれるもの、有難い
出会い、嬉しい出会いは常にあるものだからです。
 子供が勉強できることはよいことに違いありません。た
だ学校の成績がよくても、よい大学を出ていても、社会に
役に立つ能力をもっているとは限らないことの問題提起を
ここでしたいと思います。「頭はいいんだがな・・・使え
ない、仕事ができな、役に立たない」という声を聞きます。
つまり、高い学歴、知識はあっても人間関係が築けない、
仕事に対しての意欲や責任感がない。忍耐力がない、工夫
努力ができない・・・。どうも社会で、仕事をやりこなす
ために必要な能力が身についていない人が少なくないらし
い。しかも若い人だけでない話でもあるらしい。
「ビリギャル」(映画名)・偏差値の低かった平井さやかさ
んを慶応大学に合格させた塾の指導者坪田信貴氏は教育の
目的を次のようにあげています。
①自分に自信をつけること 
②自分の居場所をみつけること
③他者への敬意をもつこと 
まさに教育の目的は社会に出て生きていく力を養う事。
この当たり前のことを子育ての中の親に、子供の勉強に
熱心な親たちに認識する必要があると思います。
社会に役立つ生きる力とは、ひとりで生きていく知力、
精神力、技能力、人間力。人と仲良く助け合って生きる
人間力。苦しい時でも耐えて頑張れる根性、パワー。
モラロジー教育では「感謝の心」「思いやりの心」
「自立の心」の三つの心を育てることを推奨しています
が、「自立の心」は仕事をしていく上には特に重要です。
さて、次に興味深い話題を紹介しましょう。
かつて米長邦雄という将棋の名人がいました。
その米長名人は現代の天才棋士といわれる
人達がどんな家庭で育ったかを調べました。
結果わかったことは、彼らは温かい家庭に
育った人達だということです。そしてお母さんがしっか
り者、お父さんに温厚な人が多いということでした。
ついでですが、昔の天才棋士と言われた人達は苦労に
苦労を重ね、歯を食いしばって勝ち抜いた人達が多い。
だから一癖も二癖もある個性の強いキャラクターの持ち
主。これは時代のせいかもしれないといわれていました。
優秀な人のお母さんがしっかり者というのは実によく
聞く話です。今も昔も偉人といわれた人達のほとんどが
優しくもしっかり者の母親、そして子供を大切に慈愛の
心で育てたというのは間違いのない事実です。
米長さんの家庭はお父さんが病弱で働けないので貧し
く、お母さんが頑張っていました。子供達の仕事は畑仕
事。厳しい畑仕事より勉強した方がよほど楽だと必死で
勉強して三人の兄弟が東大に入ったのです。
 それにしても昔の人達は貧しい中、本も少ない中、本
当によく勉強したようです。「蛍の光窓の雪」です。
なぜそんなに勉強したのかその根性には脱帽ですが、
きっと欧米の圧力に屈しない強い国を作ること、近代化
の遅れた日本の国の新しい建設に意欲を燃やしたからで
しょう。まさに国の為になくてはならない義の心を感じ
ていたのでしょう。「一日休めば一日遅れる」それが明
治の人達の向学心を燃やしたといわれます。
多くの人達を笑顔にする。幸せにする、そんな
志をもって仕事をするなら、どんな仕事も素晴ら
しいものです。未来を作る子供たちに知識だけで
なく、精神性や技能力を含めた総合人間力を高く
する教育をして欲しいと思います。
働く年数が増えてきているこれからの長い人生
を充実した喜びの日々にするためにも、必要とさ
れる技能、積極的自立心をもつことが必要でしょう。
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# by nizicanvas3 | 2017-02-26 20:18 | まんりょう

3月 まんりょう 373号 下の段

【健康】 「 生きていることに感謝 」
★難病・頸椎後縦靭帯骨化症への朗報★
骨化症という病気がある。頸椎、胸椎、腰椎の人
体が骨のように固くなって神経を圧迫する難病指定
の病気で、東洋人、日本人には結構多いという。
私は何人かの頸椎後縦靭帯骨化症の人に出会った。
その中の一人に世界的有名なブレイクダンサーの
ISOPP(イソップ 本名・丸山悟史)さんがいる
が、その人を紹介したい。彼は私の主治医の患者。
 第五十回地域健康セミナー(奈義町で開催)で話に
聞いていたISOPPさんに初めてお会いした。
手術を受けて二年、現在ほとんどよくなってまたダ
ンサーとして活躍だが、仕事の合間に時間が出来た
らこのセミナーに参加して自らの体験を語り、踊り
を披露されている。とても十七時間の大手術を受け
たようには思えないダイナミックで、
しかも繊細な踊りに私は心から感動をした。
聞けば左の手足の痺れから始まり、右手足、そし
て手すら上がらなくなるという苦痛の状態でも踊っ
ていたそうだ。後縦靭帯骨化症という難病であるこ
とが分かり、その治療に三人の名医を尋ねたが、救
いはなく「極端に細くなっている頸椎神経を守る為
に転ばないように、動かない生活を送るしか
ない、そうでなければ死ぬ」と言われたそうだ。 
骨化した靭帯が脊椎神経を圧迫して一㎝の神経が
三㎜程しかないのだった。踊りを諦めきれない彼は
インターネットで探しまくって岡山済生会脳神経外
科の医師を見つけて手術を受けた。まさに命がけの
手術に臨んだが、大成功でその後
ダンサーとして復活、活躍されている。
私にはこれまでまったく関心のない世界の人だが、
お会いしてお話を聞いているうちにとても魅力を感
じた。「まだ全部が治ったわけではない、※手も足の
痺れもまだ少し残っている。でも生きているだけで
感謝」と心から快復の喜びを語るISOPPさんの
顔はとてもやさしい!そして明るく輝いていた。
「世界チャンピオンになった二十代ではこの難病を
受け入れることはできなかったと思う。三十代の今
だから受け入れることができている。自分の技が成
長した分、それに見合った大きな試練がやってきた
と考えています」と語る三十九歳の若者の姿は、病
に苦しむ多くの人を勇気づけると思う。
骨化症に悩んでいる人は意外と多い。
そんな方達の情報になればとここで取り上げた。
※一度とことん痛めた神経の完全な回復は難しいようだ
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# by nizicanvas3 | 2017-02-26 20:16 | まんりょう

裏面 上 中段

【日本再発見】《 世界に伝わる日本精神と文化 》
二月十一日、津山地区の建国記念の日を祝う会では記念
講演として季久惟氏のお話を頂きました。季氏は台湾出身。
通訳翻訳家、日本文化研究等、多方面でご活躍、そして
まさに日本と台湾の架け橋のような存在の方です。
「台湾は日本から精神的、物質的たくさんの恩恵を頂いて
いる。台湾人は日本に救われ本当に感謝していることを、
私は祖父母からたくさん聞いて育った」と、日本人があま
り知らない台湾に息づく日本の魂についていろいろと話さ
れましたが、そのことをまったく知らない、なぜか今まで
知らされてこなかったことに私達は驚き、感動しました。
李氏が語られた話の幾つかを順不同でご紹介します。
台湾は長い間、スペイン、オランダ、清王朝が支配して
いた国。台湾はもともと多様な部族の集まりの国で、
部族ごとに言葉が違うから部族間の交流も少ない国。
それを幸いに、台湾人同士の団結力をつけさせない為に、
本国から囚人や海賊や山賊を送り込み、台湾人を見張り、
奴隷のように働かせ、略奪暴行が日常化していた。
日清戦争で負けた清国は賠償として日本に台湾を譲った
のだが、その台湾は清王朝の搾取によって土地も人の心も
荒廃した無法地帯、中国から送り込まれたアヘンによる中
毒、伝染病などでどうしようもない※化外の地であった。
 もともと緑豊かな国であったのに、中国の宮殿の建設の
ためにたくさんの山々の木が伐採され禿山となり、洪水と
干ばつを繰り返し、台湾は疲弊した土地が広がっていた。
そんな荒廃した台湾の統治に日本人は随分苦労していた。
台湾人は長年他国からの侵略でひどい目に会わさ
れていたので、日本人も同じだと抵抗したのだった。
それでも日本人は台湾を自分の国として同等に扱い、日
本人の血税をたくさんつぎ込んで教育普及、インフラ整備
等、終戦まで五十年間、心血を尽くして治めた。「武士道」
で有名な新渡戸稲造は農業政策で台湾開発に貢献した。
 荒廃した土地を開拓するために八田與一が建設した八田
ダムの話は最も有名な話。台湾では八田與一は第一級
の恩人で、今でも台湾人に慕われ、大切に祀られている。
西郷隆盛の息子菊次郎は五年間台湾に赴任し、築いた堤
防は今でもしっかり残っている。台湾の市民はいまだに尊
敬し、その名を刻んだ石碑を堤防に飾って感謝している。
日本人は台湾人を牛馬のように労役させるのではなく、
技術を教え、台湾が自立して繁栄するようにしてくれた。
鉄道を敷き、治水事業を行い、その御蔭でその一帯は大
穀倉地帯になって、台湾人の暮らしを豊かにした。今でも
果物、野菜、サトウキビ等がたくさん取れる一大コンビナ
ートになているのは、日本人の御蔭と心から感謝している★
★一九九九年、台湾で大地震が起きたとき、日本はたくさ
んの支援をしてくれたが、あの時壊れなかったのはかつて
日本の統治時代に建てた建物だけ。戦後作られたコンクリ
ートの建物はみんな壊れてしまった。世界中からの救出援
助の中で日本人が一番丁寧に被災者を探してくれた。 
 台湾は沢山の部族が集まっているからその部族の共通の
言語は日本語になっている。その部族には文字がない。
 そこで日本人はたくさんの部族の言葉や文化をま
とめてくれているが、それは日本語で記録されてい
る。台湾の第一級の資料は全部日本語で書かれている。
日本人は教育普及に力を尽くしてくれた。最初に台湾に
教育をもたらしてくれたのは日本から来た六人の先生。
六人は抗日テロによって殺されたが、台湾人は六人を教育
の鑑として神社を建て丁寧にお祀りしている。そこは学問
の聖地になっている。その中の一人が大河ドラマ「花燃ゆ」
に出ていた吉田松陰の妹の久と香取素彦の息子の久米次郎。
日本人は迫害されても脅されても負けずに台湾の為に働
いてくれた。諦めずに台湾の発展に寄与してくれた。その
ことが分かった時台湾人は心から日本人に感謝した。だか
ら彼らが日本統治時代を話す時はとても嬉しそうだった。
長い圧政で疑心暗鬼になっていた台湾人の心に光をもた
らした。日本人は人を信じることの尊さを教えてくれた。
台湾人が日本人から学んだ一番のことは「利他の精神」
譲り合い。見返りを求めず他者の為に貢献する心。感謝と
報恩の精神。「八紘一宇」の精神を台湾人に教えてくれた。
台湾にはたくさんの部族がいて、仲良くできていなかった
が、民族が違っても仲良く暮らしていく「八紘一宇」の精
神(初代神武天皇の言葉)で仲良く暮らすことを学んだ。 
台湾人は日本語を勉強する人が多いが、うまく話せると
いうことを目標にしているのではなく、日本人の感じてい
る心が共感できるようになりたいと思っている。
だから台湾では和歌、俳句、川柳などが盛んだ。
日本に来たい台湾人はたくさんいる。その人達の為に私
は日本の神社に参拝して朱印してもらい台湾の人にあげて
いる。そうすることは祖父が教えてくれた事だった。
今、台湾ではかつて日本が統治していた時代に作られた
ものを再発見して大切に保管する運動が盛んになっている。
台湾の人達は親や祖父母から聞いた日本人のよき思い出
の話によって日本に感謝しながらかつて日本人が作った物
を探している。最近見つかって話題になった石碑がある。
そこには「台湾よ とこしえに幸あれ」と書いてあった。
その言葉に台湾人は大変感動した。私は感謝の気持ちで
「日本人よ とこしえに幸あれ」と感謝でお返ししたい。
※化外の地とは野蛮の地、支配できないほどの地域
《李久惟氏紹介》 15か国語も話せるマルチリンガル講師。’75年台湾出身。英国の寄宿学校在学中、欧州各地でホームステイ中に世界中の言語や文化に興味を持つ。’95年東京外国語大学入学。在学中より通訳翻訳家として台湾新幹線プロジェクト、参議院議員海外関連公務、語学教育システム構築、各種国際大会、映画祭等幅広く活躍。
《季久惟氏の著書》 『日本人に隠された真実の台湾史』『本当は語学が得意な日本人』
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# by nizicanvas3 | 2017-02-26 20:14 | まんりょう
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モラロジー道徳の普及を目的にしたブログ


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