ご挨拶

新緑の季節がやって参りました。津山女性クラブの会報誌のまんりょう五月号を掲載しました。
いまや女性クラブの会報誌を超越えていろいろな方に読んでいただいています。幼拙な文章を恥ずかしく思いつつも、書きたいことを本音で書かせていただけていることを心から有難く思います。
本当の新聞はA3の用紙の裏表を印刷しています。印刷は輪転機。いろいろとレイアウトで飾って結構素敵な新聞になっていますが、インターネットにはそれができなくて、記事だけで残念です。
 以前書いていましたブログも書きたいのですが、時間がなく。せめて行事とお店や観光案内くらいは載せたいと思います。よろしくお願い致します。
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# by nizicanvas3 | 2017-04-27 22:06 | まんりょう

5月号 №375 表面 

      〘 受け継ぐ 〙
四月より津山事務所の代表世話人が北原新造     
氏と交代で秋田健仁氏が新代表として就任され
ました。その就任のご挨拶の中でこの代表を受
けるにあたっての二つの理由を話されました。
一つは、代表世話人就任の話と同時に商工会
議所の重職の話もあり、どちらの役を受けるのが本当に
大切か悩みました。千九郎語録に「最高道徳以外の一般
の事は、ただ社会を飾っていくだけのものなり。今日、
ただ今のことをやっていくぐらいのこと」とあります。
博士は決して他の事をするなというのではなく、最高道徳
による人心開発救済が最も大切な仕事だといわれています。
そういえば私達も秋田新代表の亡父二代目代表世話人英
夫氏から「苦労して、馬鹿を見て、損をして、徳を残せ。
そういうお役を頂いて徳を積んで子孫に徳を残すこと
こそ最も善である」とよく言われていたものでした。
 もう一つは、父も以前代表世話人をうけて頑張っていま
したが、私も父の後を歩いていこうと決心しました。
 前者の言葉も意義深いものですが、後者の「父親の
してきた後を歩く」という言葉が私には心に残りました。
 知人に醤油屋さんだった方がいます。そこで使われてい
た大きな醤油樽をこのままにしておくのはもったいない
と物好きな?有志が集まって工夫を凝らし、今年津山の
鶴山城の桜祭に展示しまた。それはりっぱな樽です。
しかしその樽を作る職人さんはもういないとか。そんな
絶滅話は今の日本には枚挙にいとま有りません。着物や帯
なども日本での職人さんは本当に少なくなり、ほとんどが
中国で作られているそうで、とても寂しい話です。
時代の流れと言って済ませてもよいものでしょうか。
 二千年の歴史をもつ伊勢神宮の遷宮は二十年に一度行わ
れていますが、大工や工芸等の諸々の技術を伝承
する意味も含んで二十年に一度行われているのです。
伝承、継承ということを最初から念頭に置いていたとは
なんという素晴らしい昔の人の知恵でしょう。
親の軌道を踏んでみる、先人が残したものを受けついで
次に伝える等の継承とか、伝統とかという言葉が敬遠され
る今日、それらが本当は大切な事、必要であることを、家
や地域や国が消滅してしまわないうちに、地域や国の政策
的な取り組みが欠かせませんが、まず私達個人がしっかり
考える必要があります。
大人気の朝ドラ「べっぴんさん」では「あなたの
人生だからあなたの好きなように生きなさい。生き
てよいのよ」のセリフがよく言われていました。
 人生は一度きりです。夢を抱いて親元から飛び立
ち、自由に大いに羽ばたくこともよいでしょう。何
処で生きようと何をしようと幸せならいいでしょう。
しかし私達は個で生きる存在ではありません。遠
い祖先から頂いた命の繋がりの延長線上に生まれ、
生きる定めを消すことはできません。
親先祖、先人の積み上げてきたものを
大切にし、次に送ろうとする姿勢も大切です。
まさに惜福、分福、植福(幸田露伴の言葉)です。
そのための苦労や窮屈さがあっても「継承」は必
要な事でしょう。そもそもどの世界に生きても苦労
や窮屈さのない世界はあり得ないものでしょう。
さらに継承はただ受け継ぐというのでは
なく、改善や創意工夫も必要でしょう。
広池博士は『大勢にはよきものと悪しきものあり、大
勢に逆らうものは滅び、順応するものも滅ぶ、順応しつつ
真理を守るものは残る』と私達に教えています。
「親(先人)の後を歩きたい」と言ってもらえる、
その軌道が魅力的なものや価値あるものである
ように、後輩の心に残るような真摯な後姿を
見せて生きたいものだと思うものです。
私自身は親が心血を注いで築き上げた事業、啓蒙
してきたこのモラロジーと道義国家日本の建設の為
の運動の後を歩き、次に伝えたいと思っています。

老舗企業・・といわれる企業は日本では26000社 世界一です。
二百年以上続いている世界の老舗企業は 第一日本(3146社)
2位ドイツ(837社) 3位オランダ(222社) 4位フランス(186社)
日本つまり世界で1位は金剛組(578年創業 法隆寺など建築)
2位華道池坊(587年) 3位 西山温泉旅館慶雲館(705年 山梨県)   
                   
〘 ミニ教育講演会 〙
日時 6月18日(日)13時半 ~ 15時半
会場 教育館 二階
講師 山下弘司氏 言霊研究家
 昨年の講演に引き続き、パート2をします

   津山モラロジー事務所 総会
 日時 5月9日(火) 18時半 ~ 

〘 手と足の文化  〙
先月は『日本文明の真価』(著者清水馨八郎)を参考に
「手の話」を紹介しました。今月は足の話を紹介します。
 先月紹介しましたように外国語には手のつく言葉はな
いが「日本は手の民族である」と言われるほど日本語に
は手のつく言葉が千以上もたくさんあります。
 手を貸す、手切れ、貸し手、売り手、切手、手応え、
手が早い、空手、手に余る 手狭、聞き手、やり手、
歌い手、手ずから、働き手、手塩にかけて・・凄い!
 農耕民族の手の文化に対して、狩猟民族は「足の文化」
獲物を追う足こそ重要なもの。日本人は「手で稼ぐ」民
族で、狩猟民族は大草原を足でまめに歩いて「足で稼ぐ」
のであるという。日本の踊りは手踊り、手拍子。外国で
は足拍子。「手柄」「手がかり」ではなく「足柄」「足か
かり」。タップタンス、社交ダンス等確かに足の
動きが凄い。「健脚文化」「靴の文化」、だから足
を使うスポーツを得意としてきたらしい。
「立たせる」という懲罰は日本だけ、外国では
立つことは平気だから懲罰にはならないそうだ。
長い距離を歩き回るには靴が必要。靴の文化の欧米人
は靴で部屋にあがるので、日本人がフロアーと同じ高
さの畳の上に寝転ぶのが不思議だという。外国には靴
箱はない。日本には今、下駄をはく習慣はないが、ど
の家でも下駄箱がある。靴箱と言わずなぜか「下駄箱」。
こんな違いはすべて生活環境の違いからくるもの。
 
【生活百科】
〘 花便り 勿忘草 〙
今月は勿忘草を紹介します
四月に入ると庭に小さな可愛い水色の花が咲き
出します。それはとても爽やかな嬉しい気持ちに
なる花です。私は数年前から植えていますが、多
年草の花で、時期になると毎年ちゃんと生えます。
しかも年々ひと株が大きくなり、見事な株になり
ます。それでももっと増やしたくて私は毎年種を
蒔いて苗を育てています。日陰でもよく育つので
楽な花です。四月から五月の比較的長い間楽しめ
ます。背の低い花ですが、日がたつにつれて二十
センチ程には伸びます。緑の葉の中に可憐な水色
の花がいっぱい咲き誇るのは素敵。小瓶に挿して
飾るとお洒落です。色は主に水色。時間がたつと
水色がピンクに変化してきます。
 花言葉・真実の友情 私を忘れないで
さあそろそろ夕顔、朝顔の種を蒔く時期です。
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# by nizicanvas3 | 2017-04-27 21:54 | まんりょう

375号 5月  裏面

【先人・偉人に学ぶ】  〘 聖徳太子 〙
 来年の教科書改訂に聖徳太子の名前を明記するかどうか
のパブリックコメントが求められていたので、仲間たちに
呼びかけて「聖徳太子の名前を教科書に記載して子供達に
教えて下さい」という意見書を集めて政府に送りました。
パブリックコメントとは政府が広く国民の意見を求める意
見書で、そこに私達の思いを送ると政府機関が参考として
取り上げてくれるものです。インターネットにその要綱が
出ています。国民の意見が発信できる貴重なチャンスです。
 学校ではいつの頃からか聖徳太子ではなく「厩戸王子」
と教えられていました。間違いではないのですが、聖徳太
子の人間性とその功績を称え、誇りに思う日本国民にとっ
ては納得できない話で、憤慨を感じていました。
そして、この三月末に学校では聖徳太子の名前で
教えることに決定したと新聞で読んでほっとしたものです。
そこで今回の「偉人に学ぶ」では聖徳太子を取り上げます。
聖徳太子、よく知っている名前なのに「十七条の憲法」
ということ以外はあまり分かっていない事に気づきました。
 聖徳太子について調べていくとなんと聖徳太子は実在の
人物ではないといういくつかの本に出会いました。その本
に不信感をもちつつも読んでみました。そういわれれば・
・・いなかったのかなと思ってしまう内容もあり、
実在の人物と固く信じていた私は困ってしまいました。
ここで紹介するかどうか暗澹たる思いになりましたが、
しかし十七条の憲法も仏教を取り入れたのも官位を定めた
のも(官位十二階)事実存在する話。もし違う人の功績であ
ったとしても太子が残したといわれるたくさんの事績は残
っているので、この事実を否定することはできないと思い
ました。前置きが随分長くなりましたが紹介しましょう。
聖徳太子は五七四年用明天皇の息子として生まれました。
母は馬小屋の方を散歩していて産気づいたということで
「厩戸豊聰耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)」と名付けら
れましたが、厩戸も豊聰耳も馬にちなんだ名前。馬は聰く
て強い、大変神聖な動物と考えられていました。数々の不
思議なエピソードがありますが、お釈迦様やキリストにも
そのような話があるのですから、偉大な人には
それだけ不思議な力があるということでしょう。
 当時は蘇我氏と物部氏の権力闘争があり、天皇の在位も
短く政局が不安定な時代でした。仏教伝来に否定的な物部
氏と仏教導入に熱心な蘇我氏の戦いで蘇我氏が勝ち、日本
に積極的に仏教が入ってきました。その時は聖徳太子
も蘇我氏側について、仏教反対の物部氏と戦っています。
聖徳太子は天皇の子であるのに天皇に就くことはできま
せんでした。蘇我氏は優秀な太子が天皇になることを怖れ
ていたのです。このあたりの政局は大変複雑なので、省き
ますが、崇峻天皇崩御の後(蘇我氏に暗殺された)、蘇我氏の
姪で故敏達天皇の后を天皇(推古天皇)したのが蘇我氏です。
推古天皇は太子を摂政として自分を助けて欲しいと懇願
され、太子は国をまとめ天皇中心の安定した良い政治を行
う決心をしたのです。あらゆることに優れていた太子は本
当に理想的な国家建設を目指したのです。宮殿を飛鳥から
斑鳩の地(今の法隆寺辺)に移しました。そこは陸路も水路
にも都合のよい交通の要所で、大陸の先進技術や文化を取
り入れるのには好都合の地。蘇我氏のいる飛鳥から距離を
置こうとしたのでしょう。今の法隆寺の近くから飛鳥時代
の物のような宮殿跡が発掘されています。それは太子が建
立したが、焼失したといわれる法隆寺のようです。
聖徳太子の功績の最も有名なのが十七条の憲法の発布。
「和をもって尊しとする」等が挙げられた背景には
それだけ政治の不安定さがあったということでした。
官位十二階という官位制度を制定し、家柄を問わず
優秀な人間の登用も図りました。外交にも力を入れました。
小野妹子は聖徳太子の「日出ずるところの天子・・」と
いうあの有名な手紙をもって隋に派遣され、大国に引けを
取らない堂々とした態度で外交に臨んだ話も有名です。
人々の暮らしを楽にするために灌漑用水を作ら
せ、農業発展のための政策もかなり実施しました。
熱心な仏教信者で、仏教建築にも詳しく、仏像を作る偉
大な研究家でもあった聖徳太子でしたが、日本固有の神々
への祭礼も大切にしました。また儒教も取り入れたのです。
 古来より日本がさまざまな信仰、さまざまな文化と仲良
く共存できたのはこの太子の計らいがもとになっていると
作家堺屋太一氏は述べて、その功績を高く評価しています。
古来よりある自国のものを捨てることなく、他国の異質
な宗教観、文化、技術、学問などを上手に取り入れている
国は世界中どこにもありません。そして日本では宗教戦争
がありません。宗教による制約がないので、政治、
経済、経営、教育等がしやすいのもその御蔭です。
残念ながら太子は四十八歳で亡くなりました。
その後、太子の息子山背大兄王(やましろのおうえのおう)
一族は蘇我氏に突如襲われ、亡き父の立てた斑鳩
の寺で自害して果て、一族は全滅してしまいます。
しかしその二十年後に蘇我一族は中大兄皇子や中臣鎌足
らによって滅ぼされています。それが壬申の乱という大事
件で、それにより「大化の改新」が行われました。そこか
ら初めて元号がつけられ「大化」となったのです。この時、
聖徳太子が蘇我馬子らと共に編纂した貴重な歴史書
「天皇記」「国記」が焼失したのです。
さて、「法華義疏(ギショ)」は世界的に有名な歴史的文献です
が、これは聖徳太子が書いたものといわれています。ここで
その太子の筆跡から太子の人柄を分析したものを左下に紹介
します。書は人なり、書いた字はその人の行動、精神を正直
に表しています。日本筆跡診断士協会会長森岡恒舟氏の字の
診断解説を次に紹介しましょう。
太子の字は横線が左に突出する字がふんだ
んに出てくる。このような字を書く人は頭脳
明晰、大変エネルギーの強い字。さらに包容
力豊かなリーダーというより信念をもった技
術者タイプ。細かいことに厳しい人だったと
いうことですが、包容力もある優れた人間性
が伺える字。頭の良い優れた指導者。
       (聖徳太子の字はこの画面では掲載できません)

十七条の憲法  ・・・日本的精神構造の始まり
一、「和を以て貴しとなす」
お互いの心が和らいで協力することがよいのであっ
  てむやみに反抗することのないようにせよ。
二、真心をこめて三宝を敬え。(三宝は神仏儒のこと)
三、天皇の詔はかならず謹んで受け入れよ。
四、もろもろの官吏(カンリ)は礼法を根本とせよ。上の
  者に礼がなければ、下の民衆は秩序が保たれない。
五、役人は飲み食いのむさぼりを止め、物質的な欲を
捨てて、人民の訴訟を明白に裁かなければならない。
六、悪を懲らしめ善を勧めることは昔から良いしきたり。
七、人には各々の任務がある。職務に乱脈にならぬよう。
八、諸々の官吏は朝早く役所に出勤し夕は遅く退出せよ。
九、まこと「信」は人の道の「義」の根本である。
何事を成すにも真心をもってすべきである。
十、心の中に恨みに思うな、目に角を立てて怒るな。人
  にはそれぞれ思うところがあり、その心は自分の事
を正しいと考える執着がある。
十一、功績、過失の賞罰は必ず正当であるように。
十二、諸々の地方長官は勝手に税を取り立ててはならぬ。
十三、諸々の官職に任じられたものは互いの職掌を知れ。
十四、諸々の官吏は他人を嫉妬してはならない。嫉妬の
憂いは際限のないものである。
十五、公のために向かって進むのは臣下たる者の道。
十六、人民を使役するには時期を選べ。農繁期には公務
に使ってはならない。
十七、重大な事は一人で決定してはならない。必ず多く
の人々と共に議論すべきである。
『日本人のDNAを創った二十人』岬隆一郎著(育鵬社)より
(現代語抄訳 紙面の関係で簡素化して掲載しました)
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# by nizicanvas3 | 2017-04-27 21:49 | まんりょう

平成29年 4月号 №374 表面

〘第三十四回 女性部総会・私のつぶやきの集い〙
 三月十日、平成二十八年度の総会、私のつぶやきを開
催しました。今年の「私のつぶやき」は福田よしえさん
と松下ひとみさんの二人。
そして昨年亡くなられた毛利隆保さんの娘さんに「父
の思い出」を話して頂き、毛利さんの作詞「感謝のメガ
ネ」をみんなで合唱して毛利さんの追悼を行いました。
私達は毛利さんにご指導を頂いた言わば教え子。天国
の毛利さんにたくさんの感謝を届けたいと歌いました。
 また、今年の総会のゲストは広島安佐事務所の中村光
子社会教育講師。明るく楽しいお話に感動しました。
そして恒例のチャリティーバザーや持ち寄りランチパー
ティー。美味しい食べ物がたくさん集まり、豪華なバイ
キング。ウクレレ、墨絵、ヨガ等のサークルの一年間の
成果も披露しました。
 中村講師のお話を少し紹介します。中村講師は十年前
御主人を亡くされてから、時間に余裕が出来て(というこ
と)モラロジーを熱心に学び始めたという比較的モラロジ
ー歴の浅い方ですが、とても素直な方で、どんどんと教
えを吸収して講師になられた方です。
 何事も謙虚に、低く温かい心になる、プラス発想で明
るく過ごすことを心掛けていると言われていました。
 人の良いところを見つけて褒めるように心がけている
と、お嫁さんが自分の母親に「いつもお義母さんから褒
められている」と伝えたそうです。そこで、お嫁さんの
お母さんもそのことに感化され、実行しているうちに、
そちらの嫁姑関係がとてもよくなったという話でした。
日頃からニューモラルの本もさりげなく差し上げて、
ニューモラルの仲間がだんだん増えてきたそうです。
 そんな楽しい日常の話に加えて、戦争中のパラオと日
本人の感動的な友情物語の秘話を紹介されました。
パラオのペリリュー島には日本軍の陣地が作られてい
ましたが、現地の人と日本軍は大変仲良く交流していま
した。しかし、アメリカ軍によって包囲され、いよいよ
激戦になるとき、島の人達は自分達も一緒に戦いたいと
申し出たのですが、日本軍はそれを断り、島の人達全員
を島から追い出しました。島の人達は今までの親切は嘘
だったかとがっかりしながら島を離れようとしたとき、
日本軍全員が海岸に出てきて手を振って島の人達を涙な
がらに見送ったのです。島の人達を巻き添えにしてはい
けないという日本軍の配慮でした。
戦争が終わり、島へ帰ってみると日本軍は全滅。
島民達は遺体に涙して、丁寧に埋葬したのでした。
パラオの国の人達は日本人の勤勉さ、勇気と祖国愛と
礼儀正しさ、優しさに敬意を払い、自分の国の国旗を
日の丸に似せて「青い海と月」の国旗にしました。
昨年、パラオの国に両陛下が慰霊に行かれました。そ
れは昭和天皇の果せなかった悲願でした。パラオの人
達から大歓迎されました。
めったに聞くことのない日本軍人の素晴らしい秘話
に涙しつつ聞かせていただきました。
 総会は一年の締めくくりです。また一年の日々を
大切に有意義に、日々励みましょう。

  〘 受け入れる 受け止める 〙
私は今年ほど春が待ち遠しいと思った
ことはありません。「春よ来い、早く来い、
歩き始めたミーちゃんが・・」という歌の
心境で、寒い冬を炬燵にもぐって籠る事の
多い日々でした。
というのも、私は新年早々の寒い日、アキレス腱を切
るという失態、笑うに笑えない、泣くに泣けない事態を
引き起こしてしまったのです。切った足が右だったので
車の運転もできず、まさに足止め状態。そうは言っても
外出は不可欠、二か月間、家族や仲間の人達に乗せても
らって外出する(最低限で)という状態でした。これほど
多くの方に助けて頂いての生活は初めて。大変にお世話
になり、有難い事でした。せめてもの不幸中の幸いは寒
い冬の時期だったこと。それが動けない私の慰めでした。
 高齢者の運転事故が多く、免許返上の問題が現実化し
てきましたが、津山の地で暮らすに運転できないのは、
困ったことだとその現実を受け入れ難く思っていた所、
なんと私は早々とその体験をしてしまったのです。
これは九十二歳の母の生活に近い。ずっーと活動的に
生きてきた母が味わっている事を私も体験したのでした。
 事故というものは一瞬。後から思えば反省点は多い。
よくよく考えればなるべくして起こったと言えることが
多く、不注意、油断が引き起こした事だと思うのです。
それにしても、首と腰の狭窄症手術でやっと元気に動
けるようになった私が、一時と言えどまた動けない生活
に逆戻り。バランスを欠く動きで再び足腰の痛みを味わ
う生活。新年を迎えてさあこれから、という時に出鼻を
くじかれたこの事態をどう受け止めたらよいのか。ここ
で何を学べばいいのかと自問自答。「いまさらもう仕方
ない、前向きになるしかない」と居直ったりもしました。
白駒妃登美さんの講演で境野勝悟氏の話を聞きました。
~日本人には「受けて立つ」という生き方がある。日本
人は「受け入れる」というのでなく、人生に何が起こっ
ても「受けて立つ」という気概を持ち、何が起ころうと
大丈夫なように自分を磨き上げてきた。受動の中に究極
の能動がある生き方をもっている」、そして白駒さんは
「非常事態は自分を目覚めさせてくれるきっかけとなる。
受け入れる、受けて立つ、どちらに転んでも最高無敵な
生き方ではないでしょうか」と語っていました。
日頃から、先人偉人の生き方を研究している私は彼ら
の生き方の中にその気概が漲っていることを思いました。
人生の途上にあるまさかの坂、必然に起こる生老病死。
それらを受け止めるだけでなく、「受けて立つ」それは
まさに「恩寵的試練」の受け止め方。気概をもって、前
向きに積極的に人生を切り開く受け止め方です。
動けない今はエネルギーを蓄える時か、しかし七十歳
を迎える私にそれほどの仕事が残っているわけではない
けど、生き方のチェンジをする時かもしれない。もはや、
打って出るのではなく、ていねいに物事に取り組み、ゆ
ったりと生きる覚悟が必要なのかもしれないと思ったり、
いや!残りの人生を世の中に役に立てて、積極的に命を
輝かしたいと思う私には、受けて立つ気概がまだ必要だ
ということかもしれない、とあれこれ考える時間でした。
 ところで、心理学者の多胡輝氏が認知症にならない生
活の仕方として「きょういく、きょうようが大切」と話
されていたそうです。しかし、それは「教育、教養」で
はなくて「今日行、今日用」、今日行くところがある。
今日用があるという生活です。なるほど誠に的を得た話。
 健康寿命で元気に生きるためには、やはり日頃から体、
脳、心を鍛えて、まさに「受けて立つ」気概をもって
しゃきっと生きることが必要なことのようです。
※境野勝悟氏(哲学者・思想家『日本のこころの教育』は有名。
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# by nizicanvas3 | 2017-03-27 21:02 | まんりょう

四月号 №374 裏面

【先人、偉人に学ぶ】〘 小松帯刀(タテワキ) 〙
    ~幻の名宰相 龍馬を超えた男~
「中国が北海道の釧路港を拠点にしようとしている」とい
うニュースが産経新聞のトップに掲載された。北海道の広
大な土地(本州にもたくさんある)を中国人が買って何に使
っているか分からないという話は以前からある。中国は尖
閣諸島だけでなく、沖縄、北海道も支配下に置こうとして
いると二十年以上も前から言われている。狙った獲物は絶
対に諦めないのが中国流だといわれている。しかし多くの
日本人にはその危機感がないことが恐ろしい事で、問題だ。
 幕末には交易を求めて欧米の国が日本にこぞってやって
きた。当時、欧米はアジア、アフリカの植民地化に熾烈だ
った。日本は開国だ、攘夷だ、倒幕だと大騒ぎの激動期。
しかし、国が分裂して、その分裂を虎視眈々と狙っている
外国の餌食になることだけは避けなければならないと、先
人達は命を懸けて国のかじ取りをしてきた。そうして日本
は欧米の脅威に屈することなく、独立した国家として世界
に銘打ってきた歴史がある。なぜ短期間に日本が近代国家
として発展したのか、諸外国の人達は非常に強い関心をも
ち、日本を手本にしようとしていた人は少なくない。
そんな維新の実現に活躍した人達の名前はよく知られて
いる。しかし、なぜか最近までまったく知られていない人
達も少なくない。中でも薩摩藩の家老小松帯刀については、
大阪を開いた男・五代友厚よりもっと知られていない。
 今回は『龍馬を超えた男』といわれる薩摩藩家老小松帯
刀について少しばかり紹介したい。今の日本人がその名前
を耳にしたのは数年前の大河ドラマ「篤姫」だと思う。
歴史研究家の白駒妃登美さんが歴史の人物で夫に選びた
い人は誰かと問われたとき、小松帯刀かなと言われていた。
多分、白駒さんの旦那さんはそういう人かもしれない・・。
小松帯刀は本当に二番手、三番手の陰の力に徹した人。
しかし、もし小松帯刀がいなかったら、おそらく薩長連合
も結ばれず、徳川慶喜の大政奉還も難しく、また版籍奉還、
も困難を要していただろうともいわれている。
さらに、明治三年、三十五歳で病死をしなかったら、明
治の時代はもう少し違う歩み方をしていたかも、早過ぎる
龍馬の死と共に実に惜しまれる人物といわれている。
 当時、どの藩とも内部分裂があった。薩摩もさまざまな
考えの意気盛んな人達で常に分裂しかけていたが、それが
防げたのは西郷隆盛や大久保利通ではない、下級武士と島
津家、徳川慶喜や幕府、朝廷にも信頼され、外国人にも顔
が利く、小松帯刀の知恵と人柄であったといわれている。
下級武士たちの力だけでは歴史を大きく動かすには不可
能。やはり大きな権威をもつ組織力の力を使わなければ★
★国家的大事業の成就は難しいということだ。
 優れた能力があっても、お金も有力な人脈もない龍馬、
西郷、大久保たち下級武士には彼らの能力を認め、活躍
する場を提供する重役が必要、それを「車輪のない車の
ようなもの」と歴史研究家磯田道史氏は例える。
 二十歳で島津斉彬や久光に認められ、藩の重臣として
経済指導、外交までのすべてを任された小松帯刀の能力
と人柄がどれほど優れていたか想像に難くない。
 鹿児島の経済力の発展には、保守的、閉鎖的な反対派
を説き伏せて信念をもって敢行する帯刀の強い意志と知
恵が不可欠だった。帯刀は西洋事情もよく勉強していて、
西洋の科学技術をふんだんに採用する等進歩的思考の持
ち主であった。しかし、自身への欲は無く、身は常に清
廉潔白、先見の明も高く、物事に柔軟に対応できる卓越
した能力、人間性に西郷も龍馬も小松に心服していた。
 帯刀は「民の生活が潤うことは藩が潤うことになる」
と領民への慈しみ溢れる政策。大火事で城事灰になった
肥後の国の人吉藩(熊本県人吉市)の窮地を五千両の大金
を「困った時はお互いさま」と快くぽんと出して快く救
った。誰にでも面倒見の良い、人間味の深い人だった。
身分、国籍を超えて慕われた帯刀。当時活躍していた
外交官アーネスト佐藤は「最も尊敬する日本人」と帯刀
を高く評価している。昭和天皇はそんな帯刀の功績をよ
く知っておられて、勅使を派遣し、祭祀料を下賜された。
実は、ここに初めて帯刀の名が表舞台に上がったという。
 帯刀は名門肝付家の三男、幼名は尚五郎。島津斉彬の
計らいで名門小松家の千賀の婿養子に入った。
二人は仲睦まじい夫婦であったが、子供がいなかった。
そして京都にいることの多かった帯刀は京都の一流芸者
の琴を妾として、二人の子供を儲けている。男の子が帯
刀の死後、跡取りとして本妻の千賀に引き取られた。
帯刀の盟友だった五代友厚が自分の敷地に家を建てて
琴と娘の面倒をみていたが、琴は四年後に亡くなった。
 帯刀と龍馬は同い年、二人は互いを尊敬する友だった。
実は龍馬の作った海援隊の生みの親は帯刀であった。寺
田屋で襲われ傷を負った龍馬と妻のお龍を薩摩に招き、
二人を新婚旅行へ向かわせた粋な計らいは帯刀だった。
薩摩見学をした龍馬は、貴公子のような顔つきで、無口
で人当たりの良い温和な性格の帯刀のやっていることの
大きさに驚き、大した男だと改めて見直したという。
体調の悪さを圧して、新しい国作りの為に奮闘してい
たが、とうとう動けなくなった帯刀に明治天皇から「早
く元気になって御用を務めて欲しい」の御沙汰書を受け
取ったが、残念ながら、再び立つことはできなかった。
 政治、経済あらゆることに長けていた帯刀は、文章や
歌も得意、常に筆まめに知人や自分の妻にも文を出して
いた。名所旧跡を和歌に読み込んだ道行き風の見事な執
筆の日記も残っている。大いなる文化人でもあった。
馬術も得意で、命を狙われるのを防ぐ為に籠ではなく
常に馬で往来していたが、その凛々しい姿は圧倒だった。
 尊皇・佐幕の壁を越えて「小松なくば何も出来ぬ」と
言わしめた幕末最大の英傑、誰にも慕われたそんな恰好
いい貴公子が幕末にいたのはそれこそ誇らしい話だ。
《参考本》『龍馬を超えた男 小松帯刀』原口泉著
『幻の宰相 小松帯刀伝』瀬野冨吉著 
『人物叢書 小松帯刀』高村直助 等

   〘 手の文化・足の文化 〙
 「両手で水を救って飲むのは人間だけ」だそうです。
「手こそ創造の神が人間のみに与えた至上の宝」と言わ
れるのは『日本文明の真価』の著者清水馨八郎氏、氏の
本から面白い「手の話」を取り上げてみます。 
 日本人は器用、ということはよく言われることですが、
それがあるからこそ日本の文化も技術も科学も世界から
称賛されるほどの発展ができた。だから日本人は「手の
民族」といえると語っています。
日本語には「手」のつく言葉がたくさんあり、それは
すべて大和言葉で、千語以上あると紹介されています。
手のつく大和言葉は漢字文化や横文字文化に変質され
ることなく連綿と民族の生活の中に使われ続けられてい
るのです。だから日本人は自然と手のつく言葉をよく使
うということです。「寛大な御処置」⇛「お手柔らかに」
「和解成立」⇛「手を結ぶ」/「手を尽くす」「手落ち」
「手塩にかける」「手ごたえがある」「手短に」「手に余る」
このような手のつく言葉は外国語にはほとんどなく、日
本人だけが空気のように使っているのです。これらの俳
句的な簡潔な言葉を使いこなせるなんてすごいですね。
 日本人の労働はみんな手仕事。歌い手、聞き手、やり
手、売り手、手間賃、手当、手料理、手を貸す、手ずか
ら、お手植え・・・「手」は即「人」であり、手形は自
分自身の証、手相は自己の運命の証となる言葉。働き手、
人手、日本人は古来から手一本で稼いで生きてきた民族。
いい手、手を打つ、手こずる、手抜かり、手を尽くす、
おしの一手、手を焼く、手に負えない、得手、不得手、
手口、手掛かり、勝手、得手、やり手、苦手、素手、決
め手、奥の手、上手、下手、切手にまで手がつくのはな
ぜ?・・手は小さい物の美称としてそっと添えられる意
味があります。では足は? 続きは来月号に紹介します。
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# by nizicanvas3 | 2017-03-27 20:57 | まんりょう
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