人気ブログランキング | 話題のタグを見る

裏 中の段

【最近の話題から】 〔 体罰 〕
先月の「まんりょう」の記事「一言」の感想を幾つかいただきました。今の世相を実感したり、我がことと振り返ったり。
私自身も、果たして自分はどうかな、と思いながら書いています。このように心に思うことを書き、それを読んでいただけることに、なんと有り難い、幸せなことかと思います。
 最近もスポーツの体罰、暴力、いじめ・・いろいろな問題が浮上してきました。まるで長年ため込んでいた膿が出ているようです。それも禊の時期を迎えたという事でしょうか。
 私は体罰反対です。「叱って育てられると人間を半分ダメにする」「愛は愛を育て、憎しみは憎しみを育てる」と聞いた時、そのことを意識して発達学や心理学、人間学などを深く勉強しましたが、まったくの真実だと思います。
親や指導者が厳しく叱ることがありますが、多くは自分の感情の爆発になっているようです。もちろん指導には厳しさも必要です。心を鬼にして厳しい対処が必要な時もあります。しかし、叱ること、鍛える事と体罰、暴力は違います。
同志社設立の新島襄は学生達の不満が騒動になったのを鎮めるために「このようになったのは学長の自分の責任です」と自分の手を特に大きな鞭を選んで叩いて、自己反省をしました。
 昔のりっぱな人の親は子供に体罰を与えた時、自分にもそれと同じような罰を与えて、子供の成長を祈ったと言います。
 厳しく鍛えるための体罰の効果や必要性を説く人もいますが、いっときは効果があるようでも長続きは無く、健全に伸びないばかりか、攻撃的、自虐的になりどこかに歪んだ性分をつくる
といえます。過度な緊張では実力を発揮できず失敗を導きます。
また暴言暴力の罰は、それを受ける本人だけでなく、それを見ているまわりの子供たちの心も苦しめ、心に深い傷をつけ、人間不信を起こすこともあるのです。
私自身、高校大学と武道の世界で頑張りましたが、一度も後ろから発破をかけられたことはありませんが、ここで死んでもいいという覚悟でがむしゃらに頑張りました。それができたのは好きであったこと、ぴったり性に会っていたからでしょう。
そして強くなりたい目標、道を究めたいという熱い思いがありました。強くなるのは良き指導者の指導、絶え間ない自分の工夫と努力しかありませんでした。当時もしごきと言うことを耳にしましたが、それがよい成果をもたらすとは思えませんでした。「うまくなる」「勝つ」「耐える力、強い精神力の育成」という話は体罰やしごきとは別なことにあるように思います。
ところでひとつ憂慮することは、叱咤激励のすべてを体罰と解釈され、過剰に批判されることです。そしてそのため指導者の熱意が薄れる傾向になることもありうることです。
豊かな、便利な社会の中で、きままに育った、非弱な若者たちを鍛えるのは難しいことかもしれません。「技を伸ばす、強くする」「人を育てる」とはどういう方法が本当に効果的かを
指導者は、心理的に、生理的によく研究して欲しいものです。
「スポーツは本来明るく楽しいもの。命令と服従ではよい成果は出せない」
柔道家古賀稔彦氏は選手時代、大変なスランプに何度も陥りました。もがき苦しんでいたとき高校時代の恩師を思い出し、遊園地に行ってとことん遊びました。先生の指導は「スランプになったらしっかり遊べ」。
リラックス、気分転換をすることでした。宮本武蔵は茶道家に「ぴんと張りつめた糸は切れる」と厳しい剣の修行にもゆとりが大切なことを示唆されたといわれます。

サルベーション・人心救済
いつ、いかなる場合、いかなる愚劣または悪徳の人に対しても、自分はその人の親であるという
心使いにて、その人の心を慰安し、その人の道徳心、特に最高道徳心を開発しようと努力する時には、たとえ先方は救われずとも、自分は安心して向上して幸福になるのです。

by nizicanvas3 | 2013-02-25 23:47 | まんりょう
line

モラロジー道徳の普及を目的にしたブログ


by nizicanvas3
line