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裏 上の段

【歴史に学ぶ】  〔 明治天皇没後百年 〕
十一月三日は「文化の日」ですが、以前は明治天皇の誕生日で明治節といわれていました。明治天皇が亡くなられて今年は没後百年(明治時代の終焉)に当たります。明治天皇は大変凛々しく聡明な方で、欧米列強に臆することなく近代日本の建国という激動の時代に最も相応しい皇帝だといわれています。しかし、戦後教育では明治天皇のご存在の重要性はまったく知らされていません。
子供たちの学ぶ歴史教科書に天皇は紹介されていないのです。
アメリカでは建国の父ワシントンの載っていない教科書はありません。日本の教科書はレーニンや毛沢東、孫文は教えても明治天皇は教えられていません。大変残念なことです。
わずかなこの紙面で、十分なことは載せられませんが、これを機会に明治天皇をお偲びしつつ、偉業を紹介したいと思います。
古来我が国の重大な歴史的変革時には必ず天皇を戴き、天皇の名において変革が断行されています。明治維新時、わずか十六歳で君主の座に就かれた天皇は明治元年政府の基本方針の「五箇条のご誓文」を出されました。「広く会議を興し万機公論に決すべし」で始まる新生日本の進むべき方向を示されました。そのとき、大臣以下臣民に対して宸翰(天皇の手紙)を下賜されました。その内容は「全国民の幸福、安寧と国家の独立、降昌の為、自ら身骨を労し苦しめ艱難の先に立つ」と天皇の覚悟を述べられました。
また当時の極端な欧米の模倣化によって社会が思想的道徳的に混迷したとき誰よりも憂慮され、日本国民の精神的育成なる教育勅語の作成を命じられたのも明治天皇でした。
当時の欧米は有色人の国をことごとく植民地化して支配していましたが、ロシアもやがて南下して朝鮮半島、そして日本へ足を延ばそうとしていました。当時の日本には国力も兵力もとてもロシアに敵うものではありませんでしたが、しかしロシアの勢力を食い止めなければ、いずれは日本も侵略されてしまう瀬戸際にありました。日本はそこで背水の陣、ロシアと戦うという大博打のような苦戦の戦争を決断せざるを得なかっのですが、天皇は苦しい決断を次のように詠われています。
  よもの海 みなはらからと思う世に など波風の たちさはぐらむ
  ゆくすえは いかになるかと暁の ねざめねざめに 世をおもうかな
天皇は将兵と銃後の国民の至情を思われ、開戦と同時に冬期のストーブを止め、炎暑の夏も冬用の軍服を着続けられ、国の為に犠牲になられた靖国の英霊に対して崇敬の限りを尽くされました。
  しぐれして 寒き朝かな軍人すすむ山路 雪やふるらむ
  暑しともいわれざりけり 戦いの場にあけくれ たつ人思えば
大国ロシアを相手に大苦戦でしたが、乃木希典、東郷平八郎などの大奮闘で勝利できたのは、二人を信頼し切っていた明治天皇がおられたからこそ成し遂げられた偉業だと言われています。
日露戦争の勝因としてあげられるのが日本人の国民性、民度、教育度ですが、明治の日本の教育の賜物であったのです。
近代国家建国のわずか四十年にして日本が世界的強国に雄飛できたのは明治天皇の偉大性が寄与されているに他ならないといえます。欧洲人は明治天皇の治世を称えナポレオンやウィルヘルムを凌駕するものと称えたといいます。
 天皇が生涯に詠まれた歌は九万三千首、古今無比の歌聖でした。そのほとんどの歌が国民の事を案じ、国民の幸せを祈ったものです。明治天皇程日本人の心を打ってやまない名歌を読まれた方はないといわれています。  
 さしのぼる 朝日の如くさわやかに もたまほしきは こころなりけり
 いかならむ 時にあうとも人はみなまことの道を ふめとをしへよ
 よのなかをおもうふびにも おもうかなわがあやまちの ありやいかに
明治天皇の御陵は京都市伏見区にあります。敷地は豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地で、京都に墓所が作られたのは明治天皇の遺言によるものということです。距離はありますが、桃山駅から歩いて上がれます。大変景色の眺めのよいところ清々しい霊験あらたかな場所です。
(今回の掲載情報は岡田幹彦氏の津山市での開催「歴史講演会」参考)

by nizicanvas3 | 2012-12-05 22:31 | まんりょう
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