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まんりょう11月 青余郷 裏面

【日本再発見】 〘 先人、 偉人に学ぶ  〙
   日本で初めて実測地図を作った伊能忠敬
 女性クラブ「温故知新」歴史に学ぶ会では二年間の古事
記勉強会を終了して、今月から先人たちの姿、生き方、英
知よりこれからの私達の生き方を学ぶことにしました。
幸いに分かりやすい白駒妃登美さんの本がテキストになり
ます。その他資料はいろいろと手に入ります。さらに私達
のグループには歴史通、政治通、モラロジー通のなんでも
よく知っている方が参加して指導頂けます。
 今月は皆さんによく知られた人、でもその素顔、詳しい
内容はあまり知られていない「天と地を測った男」とよば
れている伊能忠敬をみんなで研究してみました。
 伊能忠敬は日本で初めて地球の大きさを計算から割り出
した人で、その数字は当時科学の進んでいたヨーロッパで
調べた地球の大きさの数値とまったく一緒。なんと現代の
最先端科学技術のスーパーコンピューターやGPSで
測った数値と千分の一しか違わないのです。その数値は
約四万㌔。なんと忠孝が日本全土を歩いた距離です。
 忠敬は元々商人。千葉県佐原市で造り酒屋を営んでいま
した。忠敬が六歳の時、母親が亡くなって、
婿養子だった父親は他の二人の子と実家に帰ること
になりました。忠敬一人残されて寂しい少年時代を
過ごしましたが、好奇心旺盛で利発な子でした。
十七歳の時、利発さと人なりを見込まれて造り酒屋に婿
養子に入ったのです。そこで一生懸命働き商売も繁盛。頭
が良いだけでなく、親切で、実直な忠敬は傾いていた商売
を盛り上げました。しかも忠孝は人の采配に長けた人で、
役人や地域の人たちと上手に意思の疎通を図り、信用され
ていました。地域社会の為に損得勘定なしに貢献しま
した。それは忠敬の人なりで、伊能家の家訓でした。
商売も地域貢献も十分役割を果たした忠敬は
息子に後を譲って、五十歳を前に隠居をしました。
そして江戸に出て当代一の天文学者高橋至時に
入門します。忠敬は子供の時から天文学が好きで、いつも
星の観察をしていました。その夢を果たそうとしたのです。
昼は勉強、夜は観察と結構大変な日々を過ごしましたが、
その熱心さに高橋至時は敬意を表して「推歩先生(星の動
きを測ること)」と呼んでいました。十七歳も年の離れた
子弟でしたが、お互いに尊敬しあっていたのでした。
 この時、忠敬はすでに地球の大きさが図りたいと思って
いました。そして北極星から割り出して図る方法を見出し
至時先生に相談しました。至時は誤差を少なくするため図
る地点を遠くにするのがよいと北海道行きを勧めました。
 北海道は幕府管轄、そこで至時は忠敬に地図を作りに★
★行くことを勧めたのです。北海道にはロシアの脅威が
迫っていました。幕府は精密な地図が欲しかったのです。
北海道行きの許可は下りましたが、費用はすべて忠孝。
忠敬は商売で貯めたお金を使いました。今のお金で換算
すると三千万円の費用でした。(ちなみに、日本で最初に
全国地図を作ったのは僧侶の行基。八世紀)
 忠敬は距離を測る方法として自分の歩幅を決めてその歩
幅通りに歩いて距離を測ったと言われます。(一足六十九㎝)
実際にはいろいろな道具も使いましたが、こうして三年
北海道の測量をして北海道地図を作ったのです。
将軍はその精密な地図を見て驚き、日本中の地図づくり
を忠敬に頼みました。それからは幕府も費用を援助し、い
ろいろと便宜を図りはしました。しかし道なきところを測
る、病にかかる、それは大変な苦労でした。年老いた身で
全国を歩いて計るという大事業が十七年間行われました。
 忠敬の地図づくりは有名になり、その方法を盗もうとし
てもその方法は誰もが行う平凡な方法。違うのはひと工夫
した道具と緻密で丁寧な根気のいる熱心な仕事ぶりでした。
 七十一歳で江戸に帰り、地図は未完成のまま七十三歳で
亡くなりました。しかし弟子たちは師匠の名前で地図を発
表したいと願って、忠孝が亡くなったことを伏せて地図を
完成させ、三年後に幕府に献上したのです。
その地図の精巧さ、立派さに幕府は非常に驚きました。
この地図を書く仕事は絵の得意な奥さんのエイさんの大
いなる貢献も忘れてはいけない話です。四人目(三人死別)
の奥さんのエイさんは天体や測量の勉強していた方でした
から忠孝には頼もしい相棒だったのです。
その地図はその後の日本で広く使われるようになりまし
た。今の地図と比較してもほとんど違わない精密さです。
 三十五年後に黒船に乗って日本上陸したペリーはこの地
図を見て、西洋ほど科学が進歩していない、器具や技術を
もたない日本に、世界水準の地図が存在したことに驚きま
した。これだけのものが作れる日本人のすごさに恐れをな
し、文明が遅れた国だと侮れないと思ったのです。
忠敬が精密な地図をつくれたのも地球の大きさが図れた
のも、実は当時測量技術には大変優れたものがあったので
す。江戸時代は学問芸術文化が非常に発展していたことも
忘れてはいけないことです。それは鎖国をしていたから他
国の侵略、外敵に煩わされることがなかった御蔭だという
ことです。当時、アジアではタイと日本以外はみんな欧州
の植民地になっていました。
 当時フランスでは親子四代もかかってフランス全土の地
図が完成しましたが、忠敬は一代で完成させたのです。
 忠敬は商売上でも従業員やお客様を大切にした商売を◎
◎しています。天保の飢饉の時には米蔵をあけて多くの
民を救ったり、災害の地域の復興に努めたり、地域の人
たちの為に献身的に尽くした人でした。だからこそ、地
図づくりの為の多額な費用を度々援助してもらうことが
出来たのではないかと言うことです。
 忠敬の作った地図は「大日本沿海輿地全図」は火事で
消失したり紛失したりしていましたが、複製もたくさん
あり、最近本物もたくさん残っていて集められ、佐原市
の忠敬記念館に収められているといいます。また、忠敬
が書けなかった北海道の一部を忠敬に教えを請うた間宮
林蔵が測量して加えたことも忘れてはならないことです。
 高齢でありながら『後世の人の為に役に立てたい』と
いう忠敬の真摯な思いは「なんとしても師の名前で発表
したい」と死を伏せ続けた弟子たちに受け継がれていま
した。その弟子の筆頭は忠敬が尊敬してやまなかった高
橋至時の長男でした。師弟愛のリレーです。
「高い精神性と技術力。先人たちが大切に育んでくれ
たものは今でも私達日本人の魂に生き続けている」と博
多の歴女こと白駒妃登美さんはいいます。
 忠敬が息子に家督を譲るときの家訓は
一、偽りをせず、親孝行、兄弟仲良く、正直であれ
二、上の人も下の人の意見もよく聞くこと
三、自分の言動を慎み、謙虚で、人と争わず
「偉人は決して一人の能力、努力でできるものではない」
誠実、真面目、実直、努力、優れた能力、それらに恵
まれた資質をもつ忠敬でしたが、多くのよき指導者と家
族、仲間と郷土の風土、伝統によってそれらの能力は育
てられていることも忘れてはならないと歴史研究
家の岡田幹彦氏はいわれています。
 
【生活百科】〘 簡単料理のお勧め 〙
 おしゃれな料理の簡単な一品「キッシュ」
①水で適度に薄めた小麦粉でクレープを一枚焼いておく。使うケーキ型に合う
大きさ。二、三枚重ねてもよい。
②卵三個、生クリーム一個、スープの素、塩コショウをよく混ぜ合わせる。
③②の溶かし卵に入れる具・人参、カボチャ、ハム、ベーコン、枝豆、コーン、
青菜(ホウレン草、小松菜)適宜用意
④茹でたマカロニ(スパゲティー等)を用意
⑤材料を全部合わせて、クレープを敷いた
ケーキ型に全部入れて、オーブンで焼く。三十分、百六十度。

by nizicanvas3 | 2016-10-24 21:44 | まんりょう
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