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392号 十月号 裏面

【先人偉人紹介】〘北海道の名付け親松浦武四郎〙

 北海道の名付け親となった松浦武四郎の物語(北海道

誕生の歴史を描くNHKドラマ「永遠のニシパ~北海道と名付

けた男 松浦武四郎~」嵐の松本君主演)が来年の一月に放映

されると、七月に北海道に行った時知りました。

以前NHKで「松浦武四郎」の放映を見ていたので、

これはぜひ偉人勉強会で取り上げようと思っていま

したら、震度七の地震で北海道が大変なことに!

まずは産経新聞の産経抄を明治二年、蝦夷地は北海

道と命名された。それが一五〇年に当たる今年、道内各

地で記念事業が行われてきた。名付け親となったのが幕

末の探検家松浦武四郎である。六度にわたり道内から

千島、樺太(サハリン)を調査して、日誌、紀行類など

一八六巻を残した。安政五年には現在の苫小牧市から

真町に入りアイヌ民族の村で二泊している。現在は

「町の犬」に指定されている厚真を猟犬として゛大変

優れている゛と日誌に書き残している。・・中略・・に

ある武四郎の碑には滞在中に読んだ歌が刻まれている。

「えみしらも 志らふ深山にわけいれば 

ふみまようべき 道だにもなし」。

道なき道をさまよっていた武四郎の心細さを平成の終

わりになって強いられるとは・・・〕

 現在北海道は広い道が整備され、観光客の絶えない素

晴らしい観光地。水源地などを狙って広大な土地が中国

人に買い漁られているという豊かな土地ですが、昔は人

も住めない、作物もできない荒野、不毛の地。

アイヌの人達がひっそり暮らしていた厳しい極寒の地。

もっとも東北同様に縄文古墳がたくさんありますから、

縄文時代はどうだったのでしょう?

 江戸時代は松前藩が治めていたそうですが、それはほ

んの一部で、ほとんどが未開拓の土地。ロシアが侵略し

てくる恐れから地図づくりを命じられたのが伊能忠敬。

伊能忠敬に測量を学んだ間宮林蔵がカラフトまでの全

地図を測量して完成させています。松浦武四郎が行った

のは北海道内陸の調査です。これで北海道地図が完成。

彼は常に手帳を持ち、見たり、聞いたり体験した事を

すべてを細かく記録し、江戸に帰ってからは絵師に手伝

ってもらって絵もいれた記録書にしています。

アイヌの人達に慕われ、アイヌに愛された武四郎です

が、その温い人柄はまさにヒューマニスト。アイヌの人

たちは松前藩から相当ひどい扱いを受け、アイヌ民族の

滅亡に繋がったのです。武四郎はそれを大変嘆いてアイ

ヌの人達の為に立ち上がりました。が逆に命を狙われる

と言う始末でした。

立ちはだかる厳しい自然を乗り越える苦労だけでなく、

徳川のスパイと疑う松前藩の監視の目を逃れるために相

当な苦労をしたのです。

「北海道の礎はアイヌの人たちの犠牲と努力により築き

上げられたものである。我々はそれを重く受けとめて感

謝と尊敬の気持ちで接しなければならない」のです。

北海道の開拓はアイヌの人達と共に維新の敗北者達や

囚人達の過酷な労働によって開拓されました。また戦後

も内地から貧しい人達が移住して開拓しています。

武四郎は北海道内をくまなく探検し、留萌、帯広、

釧路等武四郎の碑は四十か所にも建っているそうです。

武四郎は三重県松坂市出身。旅行好きで十六歳の時に

家出して日本中を回りました。七十歳で富士山にも登り、

奈良と伊勢の国境にある険しい山、大台ケ原に登って自

分の墓を建てた面白い変わり者(実際は埋葬されてない)

 「優婆塞も、ひじりもいまだ分け入らぬ 深山の奥に 

吾は来にけり」と得意顔。傑物にして奇人の武四郎です。

一日六十㌔のペースで歩き回った健脚家。道内十一ヵ

国、八十六か所の地名の名付け親。探検家だけでなく、

膨大な記録を残した著述家、アイヌ語研究の言語学者。

さらに、たくさんの美術品を集め、有名な文化人や学

者とも交流がある文化人。彼の持っていたものが岩崎弥

太郎に渡って保管され、その御蔭で現在残っています。

 はたまた西郷隆盛や坂本龍馬も北海道について教えを

請いに来ているというエピソードは事実。龍馬は北海道

開拓に興味を持っていて、彼の親族は北海道に移住開拓。

武四郎は一八一八年生まれ、明治二十一年七十一歳で没。

 ここで紙面切れになりました、こんな大物を私達はほ

とんど知らないなんて!申し訳ない限りです。

子供向けの絵本『北加伊道』。小説『がいなもん』等

多数の本があります。ネットにも情報が多数あります。 

北海道の阿寒湖で買ったコバルトブルー(瑠璃色)の石

「アイヌ玉」を見て私はアイヌの人達を偲んでいます。

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〘 バルト三国旅行記  〙

 女性部の仲間の土居匡子さんから九日間のバルト三国

旅行記を投稿して頂きましたので紹介します。

「小さな宝石箱」と呼ばれるバルト三国は穏やかなバル

ト海の縁に位置し、北から南へエストニア、ラトビア、

リトアニアと並んでいます。各首都(タリン、リーガ、

ヴィリニュス)を含め、世界遺産に登録されていて中世の

面影を今に伝えています。日本とは六時間時差です。

七月は北海道のような気候。風はとても爽やかで心地

よく、夜は十時頃まで太陽が沈みません。

夕食が終わって一息ついた頃にバルト海に沈んでゆく

美しい夕陽を眺めることが出来ます。旅行者にとって夏期は

一日が有効に使えラッキーです。簡単ですが紹介します。

◎エストニア・九州程の面積で人口一三二万人の小国。

IT化が進んでいて世界から注目されているキャッシュレス

の国です。電子政府によって電子投票から電子署名、新しい

システムも次々と考案されて国民全体の誇りとなっています。

一方北欧の雰囲気が漂う首都タリンの旧市街地は世界遺産に

登録され、その眺めは中世にタイムスリップしたようでした。

ところがそんな国でもハンザ同盟に加入するまで様々な

国に支配され、独立までの歴史は苦難の連続でした。

「歌の広場」で何十万の人達が歌うことで独立

を訴え、自由を勝ち取った話は有名です。

◎ラトビア・人口二百五万人。ミニトレインが重厚な建物の

町並みを巡り、観光客を喜ばせてくれます。国土の半分は

森林。数千の湖が点在する自然豊かな眺めは心が洗われるよ

うでした。しかしこの国も他国による度重なる占領に耐えて

きたため国民の団結心は強く、自由で明るい空気に包まれて

「バルトのパリ」と呼ばれるまで成長しています。

◎リトアニア・第二次世界大戦でユダヤ人を助けた杉浦千畝

で有名な国です。人口三百万人。「小さなローマ」と呼ばれ

ています。ゴシック、ルネッサンス、バロック様式の建築物

が多く残っています。十五世紀にハンザ同盟都市になったこ

の地はかつて日本領事館がおかれていました。

 杉浦千畝はそこで本国外務省指示に背いてまで「命のビザ」

を手書きで書き続け、六千人以上のユダヤ人がアメリカに向

けて逃げる手助けをしたのです。愛と勇気の杉浦千畝は

「日本のシンドラー」と讃えられ、今日まで感謝され続け

てきたことに強く感銘しました。氏の功績を称えて記念館

として保存されている旧領事館は強く印象に残りました。

三国とも大変な親日国。日本人好みの料理が多く、満足す

るものでした。日本への憧れも強く、「GISYA・ゲイシャ」

と書かれたチョコレートがお土産として売られていました。

ハンザ同盟・・中世後期に北ドイツを

中心にバルト海沿岸地域の貿易を掌握し、

ヨーロッパ北部の経済圏を支配した都市    地図を載せています

同盟。(ハンザとは「商人の仲間」の意味)

バルト三国はロシア、ドイツなどに

侵略され苦渋の時代を過ごしたが、

独立後共同歩調を取って親米・

親西欧の経済・外交政策を展開し、

2004329に三国そろって

北大西洋条約機構NATO)へ加盟。



by nizicanvas3 | 2018-09-27 22:49 | まんりょう
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