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№439 9月号 裏

【歴史偉人】 〘 卵かけご飯のお爺さん…実は 〙

 七月の「偉人勉強会」で津山市の歴史小説家竹内佑宜

氏の講義で津山の幕末維新達を学びました。竹内氏は旅

館のオーナーですが、津山の歴史に詳しく、最近は地方

新聞「津山朝日」に「青雲山河」の大作小説を長期に掲

載されました。今回の話題の中心は津山藩の三人でした

が、もう一人の人物「岸田吟香」は突出した郷土の偉人

と紹介されました。しかし長年津山に住んでいる私はそ

の人のことはまったく聞いたことがありません。幕末の

備中松山藩で経済の立て直しをした山田方谷すら長年知

らなかったというお粗末。いかに私達日本人が過去の偉

人、郷土の偉人達に無関心であったか、いや学ぶ機会が

なかったか、何故でしょうか、実に勿体ない話です!

 津山市の隣に美咲町があります。駅は亀甲。大きな亀

が飾られ、愛称はカメッチです。そこでは卵かけご飯が

有名で、遠方からも食べに来られます。卵かけご飯の紹

介には必ず大髭のお爺さんの写真が飾られています。

その人が岸田吟香さん。なんでも卵かけご飯の生みの

親ということですが「大げさな!卵かけご飯くらいどの

家でも作るわ」と軽く思っていましたが、超多忙な吟香

が栄養を考えた簡単な料理が卵かけご飯だったようです。

 ところが、岸田吟香の功績はそんなものではないので

す。そんな重要なことを何故PRしないのか、不思議な

のですが、早く言えば渋沢栄一のような人です。文化人

であり、ジャーナリストであり、実業家であり、盲唖学

校設立等々、その活動は多岐にわたります。

 私はそのことを知って、仲間と岸田吟香が展示されて

いる旭町の文化会館・図書館二階の展示室に見学に行き

ました。丁寧に展示されている岸田吟香の書や絵や業績

の数々の展示に驚きました。教科書に掲載されている

「麗子像」の絵を描いた画家岸田劉生は吟香の四男です。

明治二年・吟香三十四歳の時、十四歳の勝子と結婚し、

吟香六十六歳までに七男七女の十四人を儲けています。

宝塚歌劇の演出家で活躍した人は銀香の五男です。

 吟香は幕末の頃、旭町栃原に生まれました。栃原は徳

川の三河挙母藩(豊田市)の飛び地。昔からの旧家で岸

田家の名前は古事記にも出ているそうです。学問が好き

で、優秀な吟香は江戸に出て(その時は津山藩屋敷に住まう)

林図書頭等著名な学者に儒学を学び、その秀才ぶりを発

揮するのですが、尊王攘夷運動にかかわり、安政の大獄

の時には幕府から追われ江戸を去りましたが、井伊直弼

の殺害の後、再び江戸に戻り挙母藩の儒官となりました。

しかし、窮屈な武士の生活が嫌で、二回も脱藩をした

り、さまざまな職に就いて、波乱の人生を歩んでいます。

 目の病にかかって、宣教師、眼科医でもあった米国人

のヘボン医師の診察を受けて数日で治ったことから、

ヘボンの門下生になり、英語を学び、ヘボン式和英英和

辞典作りを手伝うことになりました。ヘボンはヘボン式

ローマ字の考案者で有名ですが、吟香の優れた能力が辞

書作りに大変貢献したのです。日本には活字の印刷機が

なかったので、中国上海に渡って印刷しています。

二万語の「和英語林書成」は大好評で何回も増版して

います。さらに、後に吟香は自分の目を治した目薬をヘ

ボンから教わり、日本初の水溶性の目薬「精気水」を製

造販売します。目の病気で困っている人の役に立ちたい

とすぐさま行動していますが、吟香、三十歳の頃です。

 吟香は日本初のジャーナリストですが、話し言葉の日

本語新聞『海外新聞』をジョセフ・ヒコと一緒に発行し

ました。さらに国内外のニュースを誰でもわかる、やさ

しい書き方の新聞「横浜新報もしほ草」も発行しました。

吟香とジョセフ・ヒコは日本初の新聞発行者です。幕末

動乱期の国内の様子を知る手段として人々の情報を送る

必要を感じた吟香は週刊誌のような新聞を発行していま

したが、さらに、明治六年四十歳『東京日日新聞』に主

筆として迎えられ、翌七年、日本軍最初の海外派兵で台

湾出兵の時、吟香は「新聞は国家の耳目なり」と機密保

持の軍部を説得させて、現地に取材に行った日本初の従

軍記者です。吟香の書く記事は分かりやすい文章、それ

につけた絵入りの新聞で大好評、売れに売れたのです。

その後、新聞記事の政府弾圧が始まると吟香はするり

と抜けて、フリーライターとして活動しています。鋭い

視点で、わかりやすく、ユーモアのある吟香の文章は大

評判でした。吟香は決して政治に近づかず、役人にも官

僚にもならず徹底したジャーナリスト在野精神で記事を

書きましたが、吟香は石油掘削、製氷等、広告王、さま

ざまな事業にも手を出して、失敗や成功を繰り返してい

ます。とにかく吟香はやりたいことを成し、意のままに

生きることを選ぶ自由人でした。四十七歳、吟香は「ま

だやり残したことがある」といって目の不自由な人のた

めの日本初の「盲唖学校」を設立しました。

吟香は上海を中心にネットワークを持ち「日清交流開

拓の駆者」ともいわれるほど日中の交流に貢献しました。

銀座では「精気水の吟香・楽善堂の吟香り」と言われ

るほど有名人でしたが、社会全体のためにお金を使い、

明治三十八年・七十二歳で生涯を終えました。江戸と明

治の激動の時代を走りぬけた人でした。吟香の死の半年

後、勝子夫人は五十歳で後を追うように亡くなりました。

「大魚は小池に遊ばす」~「小さなことにこだわらず、

大きな目で物をとらえる」と吟香は常に語っていました。

吟香の筆跡を診断すると、おっとり型でマイペース。

しかし粘り強く、深く追及するタイプ。また目立つこと、

華やかなことが好きなスター性のある人のようです。

★★★★

   〘  ロシアってどんな国?  〙

一九四一年、日本がアメリカとの海戦を決定した時、戦

争に反対だった昭和天皇は明治天皇の御製の句を詠まれ、

海戦を承諾しなければならなかったことを悲しまれました。

「よもの海 みなはらからと思う世に など波風の

たちさわぐらん」(四方の海は みな兄弟だと思っているのに

なぜ波が騒がしくなるのだろう)、日露戦争の開戦にあたり、

明治天皇が戦争回避の願いを込めて詠んだという歌です。

 長引くロシアのウクライナ侵略戦争に、改めてこの歌を

思い出します。あれだけの戦費を国内産業などに使えば、

ロシアはもっと優れた豊かな国になるでしょうに・・・。

ロシアの利益より、プーチン自身の欲望実現の為に、他

国を侵略して踏み荒らし、人の命を虫けらのように潰して、

自国の国民まで犠牲にして戦いを続けるプーチンに早く神

の裁きを、と世界中の多くの人が思っているでしょう。

それにしても今までロシアは隋分ひどいことをした国だ

とあらためて分かりました。私が学生時代、突如アフガニ

スタンを侵攻して、王国アフガニスタンを破壊しました。

以来、アフガニスタンは破壊と混乱の地獄絵が今でも展開。

日ソ不可侵条約を破って、終戦したにも関わらず、突然、

無抵抗の満州の日本人を殺し、北方領土を奪い、シベリア

に強制連行した数は七十万以上。そこで七万以上の日本人

が飢えと寒さと過酷な労働で亡くなりましたが、死体から

衣服を剝がされ、そのまま穴に埋めたそうです。貧しいロ

シア人がその衣服を利用したのです。今回もそうらしい。

第二次世界大戦中、杉浦千畝大使が発行したビザをもっ

てシベリア鉄道で逃げるユダヤ人をロシア人は金目の物を

強奪しました、近年でもシリアの紛争、世界のあちこちの

紛争に出かけて殲滅作戦をしてたくさんの一般人を殺して

いたのがロシア兵。ロシア兵には武士道精神はないらしい。

 かつて徳川幕府はロシアの脅威に伊能忠敬に命じて地図

を作らせました。幕府はあの手この手でロシアとの交渉を

回避しようとしました。その時活躍したのが、川路聖謨で

す。また、対馬に上陸したロシア兵の対馬城主との対面を

なんとか拒否させたのが、小栗上野介。結局、イギリス

の海軍力でロシアを追い払うことができましたが、もし城

主と対面していたら、壱岐対馬はロシア領になってしまっ

ていたといわれます。また日露戦争でロシアに勝利しまし

たが、もし負けていたら、今日本は根こそぎなかったで

しょう。かつてのウクライナもそうですが、奪うのは領土

と国民の命だけでなく、奪った歴史伝統文化も破壊するの

です。だからウクライナの人達は戦っているのです。もし

沖縄がロシアに奪われていたら、絶対に返ってはこなかっ

たでしょう。ロシア人にも平和や自由を愛し、命を大切に

する人はたくさんいます。しかし、言論統制の下とはいえ、

今平和を享受楽している能天気なロシア人が腹立たしい!



# by nizicanvas3 | 2022-09-18 21:52 | まんりょう

8月号 №426 表

〘 安倍元総理の死を悼む  〙

父が息を引き取った時、母は言いました。「巨星落つ」。

安倍元総理の死はその何倍も大きな「巨星落つ」です。

本当に無謀な狂気に倒れたのが悔しくてなりませんが、

幕末の幕臣の小栗上野介(まんりょうの六月号の歴史偉人に

紹介)が思い出されました。防衛、経済、教育、政治に

特化した能力をもつ小栗を恐れた薩摩によって捉えられ、

暴漢のような薩摩武士によってすぐさま処刑されました

が、生きていたならその後の日本にどれほど貢献された

か、本当に惜しい人でした。

安倍さんもまたこれからの日本だけでなく、混沌とし

ている世界にどれほど必要な人であったか!少なくとも

後十年は第一線で力が発揮できた人だっただけに、無残

なこの悲劇が惜しまれてなりません。大きな損失です。

 安倍さんは歴代の総理の中で一番日本人としての誇り

と信念をもって働いた政治家だったと思います。

いくつかの失態はあったけど、それは山のような大問

題の中では小さなこと。安倍さんの政策のすべてが成功

ではなかったけど、それは安倍さんだけの責任ではない

話。日本の発展と日本を守るために心身をすり減らして

世界中を回って、果敢に、命がけで頑張ってこられたこ

とを世界中の多くの人は認め、感謝し、称賛しています。

安倍さんはとても明るく、優しく、親しみやすく、ユー

モアのある素敵な方だと、多くの方が尊敬しています。

総理になられたとき「戦後レジームからの脱却」をか

かげ、愛すべき美しい日本を取り戻すために教育基本法

の改革、国防、憲法改正に手を付けましたが、その時以

来、安倍さんはマスコミからひどいバッシングを受けて

いました。安倍さんほどマスコミや左翼の人達、野党か

ら叩かれた総理はいないでしょう!ある新聞社は「安倍

を必ず殺す」と公言していたそうです。言葉を選ばない

容赦ない攻撃、ひどい言葉の暴力で叩きのめされました。

(亡くなった今でも盛んに攻撃している人達がいます)それ

でも日本の為に毅然と政治信念を貫き、飄々と、明るく

活動されていました。総理時代には過労とストレスで倒

れてしまうのではないかと案じられました。安倍さんの

命と引き換えに、神様は私達に何を学べと言われている

のでしょうか。せめてこれから安倍さんの志を継承する

りっぱな政治家が出てくることを心から期待します。

安倍さんの名は後世まで伝わり、永遠に不滅です!

 ★★★

 参議院選挙の全国区には応援したい人が何人もいまし

たが、知人が出馬することを知り、これは応援しなきゃ

と思いました。その知人は四十年程前、父が世直し運動

で立ち上げた「世論の会」の三輪和雄氏です。父が亡き

後を受けて二十年も活動をし続けてくれている人です。

党の名前は「新党くにもり」、今回は落選でした。

当時父はマスコミ報道があまりにも偏向していること

と世の中の左翼化を憂いていました。拉致問題が表に出

ていない時に父はすでに拉致の情報を得て、活動をして

いたようです。六十歳で第一線を退き、残りの人生は

「誇りある日本を取り戻すために生きる」を使命として、

全国を回って、教育正常化、偏向報道の是正活動を八十

歳で亡くなるまで頑張りました。この党の選挙の応援を

お願いした知人達の多くから「立派な方だった」「尊敬し

ていました」「お世話になった」と父への感謝と称賛の言

葉をたくさん頂きました。父が亡くなり、もう二十年以

上もたちますが、父への尊敬の念を忘れずにいて下さっ

たのです。改めて父の偉大さに誇りを感じました。

父は十五歳で志願して海軍に入り、ミッドウェイ海戦

に参加し、ガダルカナルの戦いで負傷し、九死に一生を

得て、内地に帰ったのですが、父の乗っていた護衛艦の

谷風は沈没して全員亡くなりましたが、負傷の御蔭で父

は生き延びることができました。まさに「塞翁が馬」。

 広島に原爆が落ちた時、父は呉の海軍基地にいました

が、すぐさま広島市に救助に向かったと話していました。

戦後、父は体調不良に苦しみ、最後は肝臓癌でしたが、

もしかしてその時、被爆していたのかもしれません。

 復員後、これからは日本の復興のために頑張ろうと

植林の仕事を始め「砂漠を緑に」までの大きな夢を描い

ていました。「一日にイワシが一匹食べられる生活がし

たい」とも言っていました。モラロジーにもご縁を頂き、

苦難の中でも仕事は順調でしたが、共に戦った戦没者の

慰霊は忘れることがありませんでした。GHQに植え付

けられた日本の自虐的歴史観の姿を憂いて「日本人よ、

もういい加減に誇りを取り戻そう」と訴え続けました。

父は言っていました。「戦争は惨い!二度としたくな

い。しかし、家族が襲われそうになった時には武器を取

って命がけで家族を守る」と。

皇室を中心に、親先祖を大切にし、兄弟姉妹、みんな

仲良く、自国に誇りをもって安心安全な日本を作ること

が父の悲願でした。父が亡くなった後、私は父の志を継

いで、それを子孫や後世の人達に伝えようと誓いました。

久しぶりに父を語りたいと原稿を書いていた時、

安倍元総理の悲劇が起こりました。父は安倍元総

理と同じ立ち位置で、同じ方向を向いて生きてい

た人でした。

       平成六年詠進 御題『波』 

慰霊船 戦友を訪ねて半ヵ月 

波の彼方に飛び魚を見る

       平成八年詠進 御題『姿』

我が影の水うつるをいましめと 

父母の姿を今も忘れず

                柴田正 

   父は毎年詠進歌を作って送っていました。

    上の書は父が書いたものです。「誠熱一貫」



# by nizicanvas3 | 2022-07-27 22:13

№438 8月

〘 日本の植物学の夜明け 牧野富太郎 〙

高知県香南市で開催のモラロジーセミナーの出講時に

牧野富太郎植物園を案内して頂きました。そのチャンスに

私は大変感激でした。なぜなら牧野富太郎は私の恩人だか

らです。といってもまったくご縁はありません。二十年程

前、私が子育ての本を書いていた頃、あまりにたくさんの

原稿に気落ちしていた時、勇気づけられたのが牧野富太郎

の言葉です。牧野博士が「何万という植物はどうして調べ

たのですか?」と尋ねられ「一つ一つ調べました」と答え

られたという話を知りました。「ああそうだ!ひとつひと

つ積み重ねていけばよいのだ!そうするといつか完成する

のだ」と思いました。以来私は何事をするにも「一つ一つ

進んでいけばいつか到達する」という覚悟をもって、行動

し続けてきました。その言葉は私の座右の銘です。

なんと、今日の日本人は世界的に有名な植物博士の牧野

富太郎を、名前すら知らない人が多いことに驚いています

が、来春からのNHK朝ドラが牧野富太郎物語になります。

 牧野富太郎は坂本龍馬が土佐藩を脱藩した翌年、高知県

高岡市佐川という町の老舗の造り酒屋に生まれました。

 幼くして両親を亡くし、祖母に大切に育てられましたが、

体は丈夫でなく、痩せこけていたので「西洋ハットウ

(バッタ)」とからかわれていました。祖母は富太郎を強く

賢い人間に育てることに一生懸命でした。富太郎は幼い時

から植物に関心を持ち、毎日野山を歩いて植物採集をしま

した。さらに、英語、数学、物理、地理等さまざまな学問

にも強い興味をもって、学びましたが、頭の良い富太郎は

それらをすぐに修得し、結局学校には二年間しか行ってい

ません。すべて独学で身に付けたのです。学校の教師が足

りない時代、優秀な富太郎は十八歳の時、小学校の教師を

頼まれ、二年間教えました。土佐には植物に詳しい人がい

て、富太郎は熱心に教えを受けていましたが、もっと学び

たいと東京に出ることを決意しました。酒屋の跡取りとし

て祖母や店の人に期待されていましたが、植物に対する富

太郎の熱意に負けて上京を許したのです。東京では東京大

学理学部を訪ねて、教授の矢田部良吉の研究室で研究する

許可をもらいました。そこには誰かに紹介されて行ったの

ではなく、いつも、ここぞと思う場所や人を狙ってとにか

く尋ねるのです。富太郎は自分がやりたいと思ったら、い

つも自分の書いた作品をもって「当たって砕けろ」で体当

たりでした。富太郎が集めて描いた優れた作品と「日本の

植物誌を作りたい」の富太郎の熱意に驚き、称賛した人達

は富太郎に強い関心を示して、協力の手を差し伸べたので

す。大学の研究室では「研究室の本や標本を自由にみてよ

い」の許可をもらい、富太郎は研究に没頭しました。植物

誌を出版したいと思った富太郎は費用節約のために、印刷

屋に頼み込んで、技術を学びました。ここでも富太郎は

印刷屋の主人の協力を得ました。この印刷屋の主人は、

近所で見染めた女性との結婚まで世話をしたのです。

こうして『日本植物志図編』の第一集を出版し、二年

後の明治二十三年には第六集まで出版しました。富太郎

の独力で成し遂げた大仕事は大評判でした。世界的に有

名なロシアのマキシモウイッチ博士からも、賞賛と激励

の手紙をたびたびもらっています。

しかし、順調ばかりではありません。富太郎の人気を

嫉妬した矢田部博士から研究室の出入りを禁止され、研

究の場所を失ってしまいました。しかし、富太郎の才能

を大切に思う人から別な研究場所を提供されて、その後、

大学の助手という立場まで与えられました。

研究費や出版には多額の費用がかかります。土佐の実

家からの援助が期待できなくなってからは奥さんの寿衛

子が金策に走っていましたが、何回も思いがけない援助

があり、窮地を脱しています。これも不思議なことです。

偉人といわれる人には窮地になっても必ず救いの手を差

し伸べてくれる人が次々出てくるのが驚きです。

 富太郎は六十年にわたって全国の植物を採取し、それ

を模写して、『牧野植物学全集』全六巻付録一巻をまと

めあげました。その業績は世界中で高く評価されていま

す。採取した植物の数は四十万。自分が発見して名付け

た数は千五百です。それらすべてを標本にし、まるで写

真で写したように精密に模写しています。なんと、一ミ

リの花びらに十本の線が緻密に描かれているのです。

 博士の業績の一番の功労者はなんといっても寿衛子夫

人。陽気で太っ腹の夫人の御蔭で極貧困の中でも仕事が

できたのです。十三人の子供を産み、昭和三年五十七歳

で亡くなりました。富太郎は仙台で発見した笹に「スエ

コザサ」と妻の名前をつけ、家にも植えて忍びました。

「家守り妻の恵やわが学び、

世の中のあらんかぎりやスエコザサ」

天皇陛下からも称賛され、九十五歳で亡くなるまで植

物の研究に一筋に没頭できた本当に幸せな人でした。

「草をしとねに木の根を枕 花と恋して五十年」(七十歳)

牧野富太郎の生涯を調べてみて、植物一筋の富太郎は

本当に天衣無縫の自由人。まことに面白い、愛すべき人。

わき目もふらず我が道を行くという「土佐のいごっそう」、

坂本龍馬のような人だったようです。その為に富太郎の

夢を支えた家族や実家は隋分苦労されていたようです。

 私は植物館で博士の書を見た時、「この方は芸術家、

楽しいことが大好きで、情感豊かなで、力強く逞しく、

どこまでも植物を追いかけていく入れ込みタイプ

(植物へのストーカー)の方だと筆跡診断をしました。

★★★

〘 女性の体 〙

若い知人に案内されて女性の体についての勉強会に参加

しました。生理痛や更年期についての内容でしたから、高

齢期の私には場違いでしたが、若い人達と一緒に勉強でき

て、楽しかったし、よい勉強になりました。若い人が前向

きに一生懸命学ぶ姿は何より嬉しいものです。

 最近は生理痛に苦しむ人が多いそうですが、私には生理

痛体験はなく、生理は気にしないでスポーツに打ち込めた

ように思います。私の娘達も生理痛に苦しんでいたように

は思えませんでした。時代の変化で女性の体も変わってき

ているようです。それは食べ物、生活習慣による体の変化

のようですが、生理に対する考え方の違いも影響している

ということです。生理を苦痛なものと捉えるほど違和感が

強くなるという話には納得できました。自分の体をポジテ

ィブに受け入れることが大切です。生理の量もある程度コ

ントロールできるという話に、そんなことを書いていた本

があったことを思い出しました。そして祖母を思い出しま

した。明治生まれの祖母に一度だけ生理のことを聞いたこ

とがあるのです。その時、祖母はコントロールしていた話

をしていました。私の若いころは綿花を使っていましが、

祖母の時代は布を当てていたようです。洗って使っていた

のでしょうか?しかし、昔は布は貴重品、高価で手に入り

にくかった時代はどうしていたのでしょうか。詳しいこと

を聞いてなかったことを今更ながら悔やんでいます。

私は赤ちゃんに布おむつを推薦していましたが、生理パ

ットも紙おむつも今は大変便利に、心地よくなっています。

が、皮肉なことに人間の感覚は衰えてきているようです。

最近は生理パットも布パットを使用して洗って使う人達も

増えているということです。エコで自然な生き方を実践し

ようとしている若い人達がいることは面白い現象です。

 女性と男性の体は違います。骨盤の形から男性は労働用、

女性は生殖用にできているそうです。女性の体の骨盤はお

産の時に横に広がりやすいように洗面器型になっています。

毎月の月経の度に開閉して、お産の予行演習をしていると

いいます。骨盤が固いとお産が重く、生理痛や更年期障害

もひどくなるのです。骨盤の動きをよくするには足首をよ

く回して柔らかくすることがよいそうです。しゃがむ姿勢

も足腰には必要とのこと。足湯で足首を温めることも健康

な骨盤、子宮には大切なことだそうです。

 自分の体の大きな変化の時である更年期は、子供の思春

期にも重なり、精神的ストレスがより大きくなって女性に

とって受難な時期です。私は更年期障害はありませんでし

たが、その頃に血糖値やコレストロールが上がりはじめま

した。これから私は後期高齢期です。体を愛おしみながら、

運動、食事、心、脳トレで心身の健康に勤しみます。



# by nizicanvas3 | 2022-07-27 22:09 | まんりょう

7月号 №437

★★★

  〘 発達には飛び級はない! 〙

「ちこちゃんに叱られる」の番組で「子供はなぜす

ぐに走るのか」の質問がありましたが、その答えは

「早く育ちたいから」でした。

 そういえば!孫達が小さい時、いつもちょこちょ

こ走っていたことを思い出しました。小さな足で気

ぜわしく動く孫を見ながら「なんでそんなに走るの

かな」と笑ったものでしたが、その姿は愛らしい!

 専門家の話では赤ちゃんは感覚が未成熟。だから

適切な刺激を与えて感覚を育てなければならないと

のこと。立ったり、歩いたりと体が動くようになる

と、自分からより刺激を求めるようになって走るよ

うになるということです。その小走りが脳の発達、

体の発育に不可欠。体を動かして運動感覚、平衡感

覚を育てるのです。動くことで筋肉や骨格に刺激を

与え、バランス力を養い、複雑で多様な動きを身に

着けます。自分をコントロールできるようになると

より強い刺激を求めて走る・・ということです。

 教育者モンテッソーリは「子供には発達のその時

期をきちんと体験していなければ、後からでは育成

しにくいのがある、それを敏感期(動物では臨界期)

といい、後から取り返してもいびつに身に付く。

編み物で言えば「網目落とし」。完成したら編み物

が歪になっている部分ができると説明しています。

知識は後からでも身に付きます。意欲や目的があ

ればいつでも十分取り返しがつきます。しかし四肢

五感を使って脳を育成する働きは後からでは難しい

のです。発達には飛び級はないのです。



# by nizicanvas3 | 2022-07-27 22:05 | まんりょう

7月号 437号

      〘 神話を広めたい!〙

「日本人はシンデレラや白雪姫は知っているのに、天照大

神や木花咲夜姫などの日本の女神の名前は知らない」の話

を聞いて、ショックでした。「日本人は自国の歴史や文化を

知らない」とよくいわれます。実際その通りです。そこで、

「そうだ!私は神話を広めよう」と新たな決意をしました。

私は長年、小学校の読み聞かせで神話を紹介してきました。

国生み神話、天岩戸、素戔嗚尊、出雲神話、天孫降臨、神

武東征等を三年生から六年生まで絵本、写真や紙芝居等を

使って子供が楽しめるように紹介しています。神話にはそ

の地方の伝承があり、その土地についての紹介もできます。

子供も先生方も興味津々で熱心に聞いてくれます。

幸いにも私は神話に由縁ある場所のほとんどを訪ねまし

た。高千穂、出雲、淡路島、沼島、宗像市等々さまざまな

場所を訪ねました。各地にある遺跡、神社や御陵にも参拝

させて頂いてきました。遠く、鹿児島県にある神代三代の

御陵も参拝しました。縄文時代から古代時代の探求もして

きましたので、神話の背景、神話につながる諸々の情報は

神話の説明にも役立っています。

 神話のすべてが真実でなくても、神話はそこに生きてい

る人達の生活や思い、歴史、風土が知られます。各地には

神話にまつわる伝承がたくさんあります。神話は古来より

多くの人達に親しまれてきた昔話の源流でもあります。

 私が神話に興味をもったのは神話作家の出雲井昌先生と

の出会いからでした。出雲井先生の講義にただただ感動し

ました。日本人でありながら、自国の神話を知らないこと

を恥じました。出雲井先生は有名な画家であり、小説家。

当時のれいろう誌に毎月掲載されていたことから、女性

部主催の大講演会の講師として津山にお招きしたのです。

それは二十年以上も前のことです。それからしばらく神話

を学ぶことを忘れていましたが、竹田恒泰氏の講演会で古

事記を紹介されて、竹田氏解説の古事記の講義を仲間と

三年かけてDVDで深く学び、益々興味を持ちました。

日本人の神話は現在に続く同一民族である日本人のご先

祖様に直結して、日本人の本質的な源流になるものです。

神話を通して古くから伝わった生活や精神性を次の世代に

伝えることが、よき日本の国づくりになると言われます。

私はそのひと役を担いたいと思って「神話をお話します」

と今広く呼び掛け始めました。「神話の出前講座もします」

と声をかけています。神話は楽しい物語です。



# by nizicanvas3 | 2022-07-27 22:03 | まんりょう
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モラロジー道徳の普及を目的にしたブログ


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