【歴史偉人】 〘 卵かけご飯のお爺さん…実は 〙
七月の「偉人勉強会」で津山市の歴史小説家竹内佑宜
氏の講義で津山の幕末維新達を学びました。竹内氏は旅
館のオーナーですが、津山の歴史に詳しく、最近は地方
新聞「津山朝日」に「青雲山河」の大作小説を長期に掲
載されました。今回の話題の中心は津山藩の三人でした
が、もう一人の人物「岸田吟香」は突出した郷土の偉人
と紹介されました。しかし長年津山に住んでいる私はそ
の人のことはまったく聞いたことがありません。幕末の
備中松山藩で経済の立て直しをした山田方谷すら長年知
らなかったというお粗末。いかに私達日本人が過去の偉
人、郷土の偉人達に無関心であったか、いや学ぶ機会が
なかったか、何故でしょうか、実に勿体ない話です!
津山市の隣に美咲町があります。駅は亀甲。大きな亀
が飾られ、愛称はカメッチです。そこでは卵かけご飯が
有名で、遠方からも食べに来られます。卵かけご飯の紹
介には必ず大髭のお爺さんの写真が飾られています。
その人が岸田吟香さん。なんでも卵かけご飯の生みの
親ということですが「大げさな!卵かけご飯くらいどの
家でも作るわ」と軽く思っていましたが、超多忙な吟香
が栄養を考えた簡単な料理が卵かけご飯だったようです。
ところが、岸田吟香の功績はそんなものではないので
す。そんな重要なことを何故PRしないのか、不思議な
のですが、早く言えば渋沢栄一のような人です。文化人
であり、ジャーナリストであり、実業家であり、盲唖学
校設立等々、その活動は多岐にわたります。
私はそのことを知って、仲間と岸田吟香が展示されて
いる旭町の文化会館・図書館二階の展示室に見学に行き
ました。丁寧に展示されている岸田吟香の書や絵や業績
の数々の展示に驚きました。教科書に掲載されている
「麗子像」の絵を描いた画家岸田劉生は吟香の四男です。
明治二年・吟香三十四歳の時、十四歳の勝子と結婚し、
吟香六十六歳までに七男七女の十四人を儲けています。
宝塚歌劇の演出家で活躍した人は銀香の五男です。
吟香は幕末の頃、旭町栃原に生まれました。栃原は徳
川の三河挙母藩(豊田市)の飛び地。昔からの旧家で岸
田家の名前は古事記にも出ているそうです。学問が好き
で、優秀な吟香は江戸に出て(その時は津山藩屋敷に住まう)
林図書頭等著名な学者に儒学を学び、その秀才ぶりを発
揮するのですが、尊王攘夷運動にかかわり、安政の大獄
の時には幕府から追われ江戸を去りましたが、井伊直弼
の殺害の後、再び江戸に戻り挙母藩の儒官となりました。
しかし、窮屈な武士の生活が嫌で、二回も脱藩をした
り、さまざまな職に就いて、波乱の人生を歩んでいます。
目の病にかかって、宣教師、眼科医でもあった米国人
のヘボン医師の診察を受けて数日で治ったことから、
ヘボンの門下生になり、英語を学び、ヘボン式和英英和
辞典作りを手伝うことになりました。ヘボンはヘボン式
ローマ字の考案者で有名ですが、吟香の優れた能力が辞
書作りに大変貢献したのです。日本には活字の印刷機が
なかったので、中国上海に渡って印刷しています。
二万語の「和英語林書成」は大好評で何回も増版して
います。さらに、後に吟香は自分の目を治した目薬をヘ
ボンから教わり、日本初の水溶性の目薬「精気水」を製
造販売します。目の病気で困っている人の役に立ちたい
とすぐさま行動していますが、吟香、三十歳の頃です。
吟香は日本初のジャーナリストですが、話し言葉の日
本語新聞『海外新聞』をジョセフ・ヒコと一緒に発行し
ました。さらに国内外のニュースを誰でもわかる、やさ
しい書き方の新聞「横浜新報もしほ草」も発行しました。
吟香とジョセフ・ヒコは日本初の新聞発行者です。幕末
動乱期の国内の様子を知る手段として人々の情報を送る
必要を感じた吟香は週刊誌のような新聞を発行していま
したが、さらに、明治六年四十歳『東京日日新聞』に主
筆として迎えられ、翌七年、日本軍最初の海外派兵で台
湾出兵の時、吟香は「新聞は国家の耳目なり」と機密保
持の軍部を説得させて、現地に取材に行った日本初の従
軍記者です。吟香の書く記事は分かりやすい文章、それ
につけた絵入りの新聞で大好評、売れに売れたのです。
その後、新聞記事の政府弾圧が始まると吟香はするり
と抜けて、フリーライターとして活動しています。鋭い
視点で、わかりやすく、ユーモアのある吟香の文章は大
評判でした。吟香は決して政治に近づかず、役人にも官
僚にもならず徹底したジャーナリスト在野精神で記事を
書きましたが、吟香は石油掘削、製氷等、広告王、さま
ざまな事業にも手を出して、失敗や成功を繰り返してい
ます。とにかく吟香はやりたいことを成し、意のままに
生きることを選ぶ自由人でした。四十七歳、吟香は「ま
だやり残したことがある」といって目の不自由な人のた
めの日本初の「盲唖学校」を設立しました。
拓の駆者」ともいわれるほど日中の交流に貢献しました。
銀座では「精気水の吟香・楽善堂の吟香り」と言われ
るほど有名人でしたが、社会全体のためにお金を使い、
明治三十八年・七十二歳で生涯を終えました。江戸と明
治の激動の時代を走りぬけた人でした。吟香の死の半年
後、勝子夫人は五十歳で後を追うように亡くなりました。
「大魚は小池に遊ばす」~「小さなことにこだわらず、
大きな目で物をとらえる」と吟香は常に語っていました。
吟香の筆跡を診断すると、おっとり型でマイペース。
しかし粘り強く、深く追及するタイプ。また目立つこと、
華やかなことが好きなスター性のある人のようです。
★★★★
〘 ロシアってどんな国? 〙
一九四一年、日本がアメリカとの海戦を決定した時、戦
争に反対だった昭和天皇は明治天皇の御製の句を詠まれ、
海戦を承諾しなければならなかったことを悲しまれました。
「よもの海 みなはらからと思う世に など波風の
たちさわぐらん」(四方の海は みな兄弟だと思っているのに
なぜ波が騒がしくなるのだろう)、日露戦争の開戦にあたり、
明治天皇が戦争回避の願いを込めて詠んだという歌です。
長引くロシアのウクライナ侵略戦争に、改めてこの歌を
思い出します。あれだけの戦費を国内産業などに使えば、
ロシアはもっと優れた豊かな国になるでしょうに・・・。
ロシアの利益より、プーチン自身の欲望実現の為に、他
国を侵略して踏み荒らし、人の命を虫けらのように潰して、
自国の国民まで犠牲にして戦いを続けるプーチンに早く神
の裁きを、と世界中の多くの人が思っているでしょう。
それにしても今までロシアは隋分ひどいことをした国だ
とあらためて分かりました。私が学生時代、突如アフガニ
スタンを侵攻して、王国アフガニスタンを破壊しました。
以来、アフガニスタンは破壊と混乱の地獄絵が今でも展開。
日ソ不可侵条約を破って、終戦したにも関わらず、突然、
無抵抗の満州の日本人を殺し、北方領土を奪い、シベリア
に強制連行した数は七十万以上。そこで七万以上の日本人
が飢えと寒さと過酷な労働で亡くなりましたが、死体から
衣服を剝がされ、そのまま穴に埋めたそうです。貧しいロ
シア人がその衣服を利用したのです。今回もそうらしい。
第二次世界大戦中、杉浦千畝大使が発行したビザをもっ
てシベリア鉄道で逃げるユダヤ人をロシア人は金目の物を
強奪しました、近年でもシリアの紛争、世界のあちこちの
紛争に出かけて殲滅作戦をしてたくさんの一般人を殺して
いたのがロシア兵。ロシア兵には武士道精神はないらしい。
かつて徳川幕府はロシアの脅威に伊能忠敬に命じて地図
を作らせました。幕府はあの手この手でロシアとの交渉を
回避しようとしました。その時活躍したのが、川路聖謨で
す。また、対馬に上陸したロシア兵の対馬城主との対面を
なんとか拒否させたのが、小栗上野介。結局、イギリス
の海軍力でロシアを追い払うことができましたが、もし城
主と対面していたら、壱岐対馬はロシア領になってしまっ
ていたといわれます。また日露戦争でロシアに勝利しまし
たが、もし負けていたら、今日本は根こそぎなかったで
しょう。かつてのウクライナもそうですが、奪うのは領土
と国民の命だけでなく、奪った歴史伝統文化も破壊するの
です。だからウクライナの人達は戦っているのです。もし
沖縄がロシアに奪われていたら、絶対に返ってはこなかっ
たでしょう。ロシア人にも平和や自由を愛し、命を大切に
する人はたくさんいます。しかし、言論統制の下とはいえ、
今平和を享受楽している能天気なロシア人が腹立たしい!